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美しい文体が、凄惨な事件の深部へ導く 〜『別れを告げない』ハン・ガン

 2024年の作家といえば、その年ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンである。評価の高い『少年が来る』(2016年・クオン・井手俊作訳)は1980年5月18日に起こった韓国の光州事件がテーマ。エピローグの終盤、最後の5ページ目で涙が止まらなくなるという圧倒的な読書体験をした。小説を読み進めることで心が傷ついていたこと、涙をこらえていたことに全く無自覚であった自分に驚いた。重く、暗く、痛いのに、でも人にとって最も大切なものが書かれている予感がページをめくる手を加速させ、書かれた言葉を一つも逃すまいと集中し、吸収しようとした読書だった。心に余裕がないと読めない小説かもしれない。
 大いに感銘を受けた私は最新作の『別れを告げない』(2024年・白水社・斎藤真理子訳)を読んだ。こちらは1948年の済州島四・三事件がテーマ。ハン・ガンを投影したような作家キョンハが主人公。ある日友人である映像作家インソンからメールが届く。インソンは、済州島の自分のアトリエで木工作業中に指を切り落としソウルの病院に入院していた。キョンハに自宅にいる鳥の世話を頼むインソン。キョンハが大雪の中ようやく済州島のインソンの家にたどり着くと生霊のようにインソンが現れる。インソンはキョンハに、二人でつくろうと約束した映像作品「別れをつげない」について語る。それは、インソンの母が経験した4・3事件を引き受けることでもあった。
インソンの生霊、鳥の霊、悪夢、吹雪、痛み、蝋燭で映し出された影の揺らめき、といった小説に仕掛けられた数々の舞台装置は、現実世界と過去の事件とを、詩のような美しい文体で見事に結びつける。幻想的な小説世界に静かな緊張感をともなって浸っていると、同じ民族の中で行われた凄惨な事件の深部に導かれる。読みやすい文体なのに、肌にひりひりと痛みを伴って刻まれるようなすさまじい筆力。近年日本からの旅行者も増えているリゾート地・済州だが、島の土には今もたくさんの骨が眠り、風には怨嗟が漂っているのだろう。ジェノサイドは一時の事柄のみを指すものではないのかもしれない。目を覆いたくなるような悲劇が、何十年後の、しかも異国の今の自分と地続きであることに気づかされる。(翻訳者の斎藤真理子さんの解説も、それだけで本が作れそうなほどの、本書に劣らない読み応えでお得感あり!)
  ハン・ガンは静かで穏やかだけど不屈で逃げない、信頼できる作家だと思う。こうした作家が正当に評価される世の中で本当に良かった。文学には力があり、暴力を踏みとどまらせることができると信じたい。そしてこんな文学作品を〝アジア人〟の〝女性〟に書かれてしまっては、村上春樹の文学賞はもうあり得ないなと思った。

(2025.1.27)

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