発言力…
2024年 7月16日(火)
【FCリブレ夏の合宿1日目】
13日(土)の景色…
〈気になる記事・前半…〉
為末大に聞く東京オリンピックの意義 レガシー、アスリートファーストとは何だったのか?
(記事本文抜粋…)
検証・オリンピックの存在意義06〜為末大インタビュー前編〜
パリオリンピック開幕が近づき、各競技に参加する選手たちや大会の直前情報は着実に増えている。そこで、オリンピックと社会の関わりについて考察する当連載…。
前編では、3年前の東京オリンピックが日本のスポーツにもたらしたものと、アスリートと社会の関係性について考察する。
―オリンピックに対する一般的な理解も、自分たちがスポーツをする楽しみとは乖離したイベント、というものであるように思います。
為末:本当によくわかります。要するに、オリンピックの〈上から目線〉に皆がちょっとカチンとき始めているのではないか、というのが私の実感です。選手それぞれは真摯に競技に取り組んでいて、その姿はやっぱり胸を打つんですけれども、オリンピックそのもののシステムやスポンサー構造がいよいよ反感を買いはじめているのでしょうね。
為末:1984年のロサンゼルス五輪のときに、たとえ商業主義と言われても儲かるモデルを作って世界中に届く大会を作ったのは、いい効果があったと思います。だけど、それは業種を絞って高い値段でスポンサー契約をして、そのほかを排除するビジネスモデルです。独占と排除という方法はインターネット的思想とすごく相性が悪い。この20年で時代は大きく変わっているので、その独占システムはかなり齟齬をきたすようになっていると思います。
オリンピックの発展はグローバリゼーションと相性がよかったのだろうと思います。世界中にオリンピックのコンテンツが広がると、ブランドを広げたい企業にも利便性がよかった。今はグローバルサウスや権威主義国家など、五輪の発祥地である欧州とは違う価値観の国の存在感が高まっています。権威主義国家に寄れば批判され、同じ価値観に揃えようとすれば価値観を押しつけることになる。このバランスが難しくなっているのは真実なのかな、と思います。
――そのような過度な商業化や知的財産権の独占がもたらす弊害は、現役選手たちにとってどこまでリアルな問題なのでしょうか。
為末:我々の現役時代(約20年前)は本当に幸せで、オリンピックに出たらみんなが喜んでくれたんですけれども、東京オリパラを経て今の選手たちには「自分たちがやっていることって、本当にいいことなんだろうか......」という疑念が少し生まれたと思うんです。
我々の時代だと「100パーセントいいことをしている」と信じることができたんですよ、勘違いもかなりの部分あったと思うんですけれども。今の選手たちは、それに少し疑いを持っている気がします。
【社会の中のアスリートという認識】
―東京オリンピックは新型コロナウイルス感染症が世界で蔓延していた時期で、非常に分かりやすい形でそのような認識に直面したのだと思いますが、パリオリンピックを目前に控えた現在、アスリートたちの考えはどんなふうに変わっているのでしょうか。
為末:まず、東京オリパラでスポーツ界が気づいたんでしょうね、「あれ、スポーツを嫌いな人もいるのかもって(笑)。「オリンピックなんて全然興味ない」という人たちがいるのは当たり前なんですけれども、それが可視化されて傷ついたアスリートもいたかもしれない。一方で我々の時代は「がんばります、日本を代表して夢と希望を!」みたいな世界観だったものが、近年では、何のためにスポーツをしているのか、と自ら顧みるすばらしい選手が多くなったとも思います。
―それは選手にとって幸せなことなのでしょうか。
為末:選手は純粋に競技に取り組んでほしい、と考える人もいるでしょうね。私自身も、じつは少しそう思うところもあるんです。けれども、やはり社会的な振る舞いを学び、そのうえで競技に集中するという、両方をやらなければいけないのだろうと思います。昔は、我々オリンピアンは「引退したら社会人にならないとね」なんて平気で言っていました。でも、今は全員が踏まえておくべき常識があって、皆が同じ社会で共存しているという考え方は、世界的に共通しているように思います。
―アメリカやヨーロッパでは社会的な発言をするアスリートが以前から多い一方で、日本では「世の中のことには口を挟まず競技に集中するんだ」という傾向が強かったように思います。現代のアスリートたちは、社会へのコミットメントに対するプレッシャーを感じているのでしょうか?
為末:あると思いますよ。昔はシンプルで「あなたの競技人生の夢を教えてください」というようなものだったのが、今は若くて経験がない選手にも社会やオリンピックに関する大きな問いが投げかけられる。何がセンシティブかもわからない年齢の選手にとって、リスクやダメージはたしかに大きいかもしれません。でも、その状況に適応していかなければならないだろうとも思います。選手たちはそういう質問に対応すると決めてもいいし、発言しないと決めてもいいと思いますが、今後は社会に対する発言を求められる機会は増えてくるでしょうね。
👉「社会の中のアスリート」
この概念は…
この記事にもあるように…
そのオリンピック発祥の地でもあるヨーロッパと、それとは風土や価値観の違う国々とで全く違っているようです…。
そしてそれは日本も例外ではないと思われます…
またそれはオリンピックだけでなく…
サッカーやその他のスポーツにおいても言えるかもしれません…。
ことサッカーにおいては…
日本もヨーロッパに追いつき追い越せとそれに学んでその環境づくりに励んでいるところですが、わたしは果たしてそれが良いのかどうかは分かりません…。
このEUROを観てもそうですが…
ヨーロッパではそのほとんどの国々が、そのサッカーに熱狂し、そのサッカーが生活の一部としてその文化に溶け込んでいるような人気ぶりで、そのぶんサッカーのステータスも高く、そしてその商業的側面やその報道メディアに関しても“度”が過ぎるほど加熱した状態と言えます…。
それは一見、日本のサッカー界からは羨ましく良い事のように思えますが、逆にそうではない部分もありそうです…。
そんなところが見え隠れして露呈したのが、このパンデミックでのサッカー界の惨状ではなかったでしょうか…。
やはりいくらサッカーとはいえ…
この世界この社会は「命ファースト」…。
その世界の平和と世界の安全がなければ、サッカーどころではないという事…。
そしてそれはオリンピック然り…
わたしはそんなにところを…
神戸に移籍して来た初日の「阪神淡路大震災」で思い知りました…。
それまで小さい頃からずっと必死で目指して来たサッカーではありましたし、自分にはサッカーしか頭にありませんでしたが、そんな自分の価値観が地震の揺れと共に180度変換された瞬間でした…。
それまでは…
ホントにサッカーしか知らない…
サッカーしか出来ない…
まさに「サッカー馬鹿」でした…
そしてその震災によってそれまでの価値観にパラダイムシフトが起きたあとも、そのサッカーには関わっていたものの、基本的なその目的と動機が全然変わっていたので、それによってわたしのサッカーにおける結果も、またその後の人生も大きく変わって行きました…。
わたしも…
それほどのショックでも無ければ…
その根本的な疑問の問いかけに気付く事が出来ませんでした…。
「自分たちがやっていることは、本当にいいことなんだろうか…」
「何のためにスポーツをしているのか…」
恐らく…
そのサッカーやスポーツ自体には何の罪も何の問題もありません…。
ただ…
それに取り組むわたしたちアスリートひとりひとりのその様々な目的や動機がどうであるか…。
そこが問題なのかもしれません…。
同じサッカー…
同じスポーツをしていても…
その目的や動機が違えば…
その結果や未来はもっと違って来るのではないないでしょうか…。
ただ自分たちだけの為…
ただ日本のサッカーやスポーツだけの為…
ただ世界のサッカー界やスポーツ界だけの為…
それとも…
地域社会のため…
日本の社会のため…
そして世界の平和と安全のために…
そう考えた場合…
そのサッカーやスポーツに取り組んでいるアスリートたちも、そのサッカーやスポーツだけでなく、より広い世界の情勢に興味を持ち、知り、そしてそこに自分なりの考えと意見を持ち、そしてそれを自分の口と言葉で発言出来るようになるべきだとわたしは思います…。
残念ながら…
現役時代のわたしには出来なかったことですが…
そういう意味でも…
今そんな若くして現役でありながら立派に自分の考えや意見を述べているアスリートたちが居るとしたら、その内容が良い悪いは別にして、その発言とその勇気は認めてあげるべきなように思います…。
少なくともわたしは…
それに…
ただSNSなどで匿名でアレコレ好き勝手言ってる人たちとは違い、アスリートたちはその実名で堂々と発言し、逃げも隠れもせずにその責任も負っています…。
選手アスリートたちを束ねる組織の意見や見解もあるかもしれませんが、その選手アスリート個々の人権から考えても、当然発言する自由はあって然るべきです…。
社会の一員であり、市民・国民のひとりでもあるのですから…
少なくとも…
世界に羽ばたく選手たちを多く抱えるサッカー界ではそうあって欲しいものです…
〈気になる記事・前半…〉はこちらから…
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