陰鬱な八月の一夜、沈黙
海の湿気が大気を樹脂で固めている。陰鬱な八月、空が真珠のように美しいのに、波間はきらめいているに違いないのに。人間なんて原罪まみれだ。
私はホテルに移動するために、モノグラムのトロリーをずるずると引き摺って、港から潮風が吹き込むプラタナスの舗道をとぼとぼと歩いていた。灼熱の午後、クラシカルな風情が際立つその街には、人影はまばらだった。蝉時雨に眩暈を感じながら、さわさわと葉音を立てる濃い緑の影を踏んでいくと、自分も影だけの存在になったような幻想に囚われてしまう。わかっている。生きながらえているのだから、きちんと生きなければならない。
チェックインを済ませ案内されたエレベーターはひんやりと黒光がして、くぐもった甘い香りがほのかに漂っていた。セピアの鏡面には、黒いドレスの女が不吉な表情で映り込んでいる。部屋は19階だった。
デスクでひとしきりPC作業に没頭した。しばらくしてふと窓のシェードを上げると、遠くのブリッジを背景にした巨大な客船に灯りが点り、水平線はピンクとオレンジの夕焼けに滲んでいる。時計を確認してから仕事を終了し、階下のラウンジに喉を潤しに行くことにした。
ホルターネックの白いタンクトップに、柔らかい素材のベージュのワイドパンツといったリラクシーな装いで、オーク素材の大きな扉の向こうに足を踏み入れる。慇懃なスタッフが迎える温かみのある空間には、ひとり客もいるが、男女あるいは女性同士の数組の先客がいて、適当な音量で交わされる会話が、小波のようにさざめいていた。日本語や、英語や、アジアの言語が混然として...
一から十までひとりで行なったり、どんな場所でもひとりでいることにすっかり慣れてしまった。懸念はたくさんある。自分についても、世界についても。ただ目の前にある、自分ができることに一つ一つ取り組んでいる。淡々と。影のような薄い存在でも、生きている限り行動するしかない。時が止まってしまいそうなときは、深呼吸をして、かつて確かに存在した幸福そうな自分を思い出す。私が記憶してさえいれば、それは消えないのだから。
話し相手のいない私は、ロレンスダレルのジュスティーヌをお供に乾杯をして、早々に部屋に引き上げた。ベッドで読書の続きをしていると、突然スマートフォンが震えて着信を知らせる。こんな夜に、と思い画面を見ると、弁護士からだった。多忙なのでゆっくり話ができるのが、夜になってしまうのだろう。会話は一時間以上に及んだ。真の正しさ、正義、justice、皮肉なことに、そんなものは法律の前に吹き飛んでしまう。あるいは個々の信念の数だけ、正しさが存在する。国家だって自分の正しさを証明するために争う。
彼は対面で話している時もそうなのだが、しばしば沈黙を提供する。長い長い沈黙を。長い沈黙の雄弁さを思いながら、弱い光が瞬く港の夜景を見ていた。陰鬱な八月。