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主語と述語のつながりを考える         ーー東京書籍の教科書より

学習指導要領〈主語と述語との関係に気付く〉

 東京書籍の小学校国語教科書3年上の終わりの方(p128~129)に「言葉相だん室 主語とじゅつ語、つながってる?」というページがある。題名にあるように、主語と述語のつながりを問題にしている。
 そこには「どこがおかしいのかな」の例文として以下の2つが挙げられている。

① きのう食べたのは、カレーを食べました。
② わたしは、すきなものは、からあげです。

  ①の文は、そこでも指摘しているように「食べたのは……食べました」となり、うまくつながらない。その理由を「主語とじゅつ語で同じことをかさねているので、文がおかしくなっているのです」と説明している。
 ②の文のおかしい理由として、「『からあげです』という述語にたいして、『わたしは』と『すきなものは』の、どちらが主語になるのか分かりません」と説明している。
 主語と述語は、小学校学習指導要領国語の〔第1学年及び第2学年〕の「2 内容」の〔知識及び技能〕の「カ 文の中における主語と述語との関係に気付くこと。」に出ている。
 学校文法では、主語と述語という関係で教える。主語と述語の説明が最初に登場するのは二年生で、東京書籍2年下(2024年版)では次のように説明されている。 

 文の中の、「何が・何は」や「だれが・だれは」に当たることばを、主語といいます。「どうする(どうした)」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」に当たることばを、じゅつ語といいます。

  学校文法の主語と述語という考え方に、私は賛成ではない。だからといって、ここで主語と述語というとらえ方を教えていることを問題にしたいのではない。また、日本語における主語・述語という考え方の当否をいま論じようとも思っていない。
 主語・述語を教える際に、教師はそれが常に有効に機能するわけではないことを分かっておく必要がある。主語廃止を唱えた三上章の著書の題名『象は鼻が長い』は、主語とは何かを私たちに考えさせてくれる。「象」が主語なのか、それとも「鼻」が主語なのかと。 

「わたしは、すきなものは、からあげです」はおかしな文?

 話を戻そう。 

 ② わたしは、すきなものは、からあげです。

  この文は、本当におかしな文なのだろうか。教科書は以下のようにその理由を述べている。 

「からあげです」というじゅつ語にたいして、「わたしは」と「すきなものは」の、どちらが主語になるのか分かりません。

  主語が「はっきりと分かるようになって」いないから、「へん」な文「おかしい」文なのだろうか。この理由が私には納得できない。主語が「はっきりと分かるようになって」いないというのであれば、先ほど挙げた「象は鼻が長い」もおかしな文と言えるのではないか。
 さらに、こう主張する以上、子どもがこのような文を書いたとき、教師には直すことが求められる。教科書では、次のように直した文が示されている。

  わたしのすきなものは、からあげです。

  子どもが「わたしは、すきなものは、からあげです。」と書いたとき「わたしのすきなものは、からあげです。」と直すことが、本当によい指導といえるのだろうか。
 「わたしは、すきなものは、からあげです。」がおかしな文と、私には思えない。日本語の文として十分成立していると思う。たしかに「~は~は……」と「は」が続くことを気にすることは、分からないわけではない。しかしそれは、話し手(書き手)の言語感覚の問題である。
 「わたしは」の「は」は、「わたしについていえば」ということをはっきりと示す。「すきなものは」の「は」は、「好きなものについていえば」ということを示す。「は」が続くことを嫌う人にとっては、いささかうるさい感じがするかもしれない。しかし、それは文法的に誤りと言えるほどのものではない。先ほども述べたように、言語感覚の微妙な違いでしかない。
 どちらが主語かわからないから「へん」な文としてしまうことは、子どもに誤った情報・認識を与えることになってしまいかねない。
 小学三年生の、ましてやコラム的な記事であるから、教室でここを念入りに授業することはほとんどないだろう。だからそんな細かいことを言うな、といった声も聞こえてきそうである。小学三年生に、難しいことを説明してもかえって分からなくさせるだけである。少しくらい曖昧でもいいではないか、という声もあるかもしれない。
 しかし、それらは子どもを見下し、バカにした考え方である。小学生だからこそ、曖昧にせず、できうる限り的確な説明をしなくてはいけない。
 ここでは、②のような文ではなく、はっきりと主述のねじれた文を例文として出し、主語と述語が対応していないことを分からせるようにする方がよかったと私は考える。 

主語と述語の対応を意識する

 実は、①の文の理由も私には気になる。

  ① きのう食べたのは、カレーを食べました。

  ①の文がうまくつながらない理由を「主語とじゅつ語で同じことをかさねているので、文がおかしくなっているのです」と説明する。どちらにも「食べる」という言葉が使われていることが、うまくつながらない理由なのだろうか。「食べる」ではなく、片方を「作る」に差し替えてみよう。

きのう作ったのは、カレーを食べました。
きのう食べたのは、カレーを作りました。

 同じことを重ねているから文がおかしくなるのではない。「~たのは」という場合、その後に「~です」と「~」のところには名詞が来なくてはいけない。にもかかわらず、ここでは「~」のところで動作が述べられているから、上手くつながらないのである。
 主語と述語のつながりを意識させようとの意図は分かるが、それがどうしてよくないのかという理由の説明として、的確ではない。
 「きのう食べたのは、カレーを食べました。」は、子どもたちの作文に出てきそうな文である。「きのう食べたのは」まで書いて、そこで一休み。そして「カレーを食べました」と書き継ぐ。子どもは昨日カレーを食べたことを言おうとしているのだが、前半と後半が子どもの中でつながっていない。したがって、おかしな文と認識できない。何も子どもに限ったことではない。大人になっても、長い文を書いたりすると、主述がねじれた文が出来上がることはよくある。文の長さのために、主述のねじれが意識されないのである。
 長い文になるほど、文全体の統括は難しくなる。それゆえ、主述のねじれも起こりやすい。短い文で書きなさいという理由の一つがそこにある。
 よくない理由は「同じことをかさねている」ことにあるのではない。もちろん、一つの文の中に同じことが二回以上出てこないようにすることは大事な問題である。しかし、それは主述の関係とは別の問題である。主述のねじれに原因があることをしっかりとおさえることが必要なのである。
 たとえば、次の文はおかしな文なのだろうか? 

きのう食べたのは、お母さんといっしょに食べたカレーです。

 少なくともこの文には主述のねじれはない。「食べた」の重なりがあり、よい文とはいえない。ただ、子どもからこのような文が出てきたとしたら、主語と述語の対応という点では問題ないので、場合によれば私なら許容すると思う。
 最後に、「言葉相だん室 主語とじゅつ語、つながってる?」はどうするべきだったかを述べておく。題名にもあるように主語と述語のつながりを問題にしようとしているのであるから、二つの文ともに主述のねじれを取り上げ、それがよくないことを説明するようにすべきである。 

 ② わたしは、すきなものは、からあげです。

 このような、どこがよくないかが分かりにくい例ではなく、主述のねじれのはっきり分かる文を取り上げるべきであった。主語と述語が対応していないとおかしな文になることを、ここでは教えていくべきである。

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