Noteを書いて1年

たちました。
Noteは糸井さんを模倣して、短くてもいいから一日一記事は書きたいなと思っていたのですが、結局100本にも満たない結果に。
毎日継続するということがどれだけ難しいかを計る実験になりました。いやほんと、ほぼ日はすごいよ。

1年あっという間なようでいろいろありました。
1年前に比べて成長しているかというとわかりませんが、変容はしているような気がします。
ここが大事です。成長に見えようが退化に見えようが、変わることが大切です。

子供は大いに変わります。上の娘はすっかりお姉さんになりました。下の娘はたくさんものを喋ります。子供は変容の幅が大きくて羨ましいです。私も負けずに変わりたい。どんどん変容していきたいんです。

でも1年前の自分を全然思い出せない。これは人間の悪いところです。自分自身も、世界に対しても変容を感じることができにくくできている。本当は、この瞬間にも変わっているはずなのに。

自己同一性というコトバにあるとおり、人間は自己を自己として定義し続けようとするちからが大きい。ある意味、皮膚とは自己と他の境界線のようなものだのだろうが、アトピーの私はそこにすら、不安がある。だからこそ、自己の定義に対してはことさらうるさいのです。自己の変容に対して恐怖している面もあるのです。

でも、テセウスの船のように、間違いなく私という自己は刻一刻と変容している。というか同一性を定義するものは人間意識的な定義でしかなく、変容している状態こそがナチュラルなのではないか。

私の家のベランダには、幾許かの土が入った植木鉢があるのだが、自己の同一性なんてものは植木鉢みたいなもので、その中身の土はアモルファスなもので、生き物の本質とは土のようなものなのではないか、とおもうのです。

では人間という存在は、植木鉢を指すのか、植木鉢のなかの土を指すのか、どちらでもなく、植木鉢という境界そのものを指すのか。私の考えは、最後のイメージなのですが、それにしたってわたしは植木鉢そのものに固執しすぎているのかもしれない。

ちょっと虚無な方向に進み始めてしまったが、私という植木鉢の中身は(理性は植木鉢なのだ)そこそこ変容したし、「生きている」かんじがする。要するに、自分の人生のマネジメントにおいて重要なことは、理性によって本能を活かす、ということで、もしかすると、いやもしかしなくても、理性によって本能を活かし、本能の闊達さによって理性は快楽を得る、という、自己の中においての共生関係の観察に他ならないのかもしれない。

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