においについて

私はもともとにおいの研究をしていたので、構造式を見るとなんとなくその化合物のにおいが推測できるなんの意味もない特技を持っています。
もちろん調香師さんに比べたら全然なんですけど。趣味のレベルで。

化合物の研究をしているとよくできているなぁと思うのは、人間は自分にとって栄養になる成分から生成されるにおいを感度高く検出できるようになっているということ。
たとえば、必須アミノ酸であるメチオニンやシステインから生成される含硫化合物の嗅覚の閾値はめちゃくちゃ低いし、同じく必須アミノ酸であるバリンっぽい形をしているイソ吉草酸は納豆臭で、これまた強烈ですよね。
こういう化合物に対しての知覚閾値の違いは嗅覚受容体、すなわちセンサーに由来するはず。つまりハード側の問題なので、生き物としての素養なんでしょうね。
でも納豆の香りを苦手な人がいたりとか、同じ含硫化合物でもコーヒーの香りであるフルフリルメルカプタンはいい匂いだけど、キャベツの腐った匂いである取りジメチルスルフィドは不快に感じる、とか一概に化合物の特徴で快・不快が決まるわけではないので、ここらへんは経験、すなわりソフトの違いによるものなのでしょう。

なんで急ににおいのことを考え始めたかというと、「仕事のにおい」「人のにおい」ってあるなあって思って。体臭とかそういう意味でなく、なんとなく、「これは自分にとってプラスに働く仕事・人なのか、マイナスに働く仕事・人なのか」を雰囲気で判断できるって、そういう意味でのにおいです。山口周さんとかも、「プロジェクトを成功させるコツは、失敗しそうなプロジェクトに関わらないこと」とミもふたもないことを言ってますが、まあ仕事ができる人は「スジの悪い仕事」に関わらない直感を持っているっていう主張に対しては頷けます。

私個人の話になると、根が真面目というか奴隷道徳をもっている節があるので、多少スジが悪そうな仕事でも義務感で請け負っちゃいます。そこまではいいんですが、途中で心が折れたり心身に不調をきたしてくるんで、もうそんなふうになるなら最初からいい子ちゃんぶらないで避けるという選択肢をとらないといけないなあ、と最近は考えてます。

一度食べ物の方のにおいの話に戻ると、化合物に対しての閾値という意味でのハードは遺伝的な個人差があるんでしょうけど、経験という意味でのソフトの個人差の方が圧倒的に影響が大きそうなものです。つまりどういうことかというと、いろんな物を食べてないと、においに対してのセンスは高まらない。範馬勇次郎の言葉を借りると、「毒も喰らう、栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ―――血肉に変える度量こそが食には肝要だ」。

これを仕事や人になぞらえると、「あぁ、これは絶対ヤバいな」って思う、毒のような仕事や人も、ある程度チャレンジしないとセンスが磨かれない、ということになります。だから、「失敗しそうなプロジェクトに関わらない」は、プロジェクトを成功させるためには正ですが、優秀なプロジェクトマネジャーになりたい、という目的においては正ではないのかもしれません。(もちろん山口周さんもその含みをもたせていっているのでしょうけど)

そうすると、食べ物においても仕事・人においてもよくないことは、「栄養にも毒にもならなさそうなもの」については、全然意味ないので避けるべき、という答えになるんでしょう。知り合いのグルメなおじさんが「食パンの耳は残すんだ。限られた人生で無意味な物を食べたくない」って言ってて、妙に納得したことを覚えてるんですが、そういうイメージです。(私はケチなので、食パンの耳は食べますけど。)

もひとつ感じるのは、大きな会社にいる人って栄養になるかどうかの観点だけで関わる仕事や人を選んじゃうところあるなぁ、って思うんですよね。明らかに毒だとわかっている物を勉強だと思って喰らいにいく、またもしくは、栄養が毒かわからないものは一度食べてみる、とか。そういう度量が大切なのではないでしょうか。

なので総合すると、においのセンスを高めるために、仕事や人について栄養だろうが毒だろうが喰らおう。逆に栄養にも毒にもならない仕事や人には距離を置こう、ってことなのかもしれないです。

なんか最終的ににおいの話じゃなくなっちゃいましたが。そんなかんじです。

追記
そういえば炭治郎も、最近マンガワンで読んでた「裏バイト」の主人公も、においのセンス高いな…どうやって身につけたのかしら…

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