演劇からまなぶこと

今日、産まれて初めて小さい劇場で演劇を生で見ました。
音楽のライブは散々見てきたんですけど、演劇ってのは初めてだったんです。
これが、どうして今まで出会わなかったのかと思うくらいのめり込みそうで、すごく喜びを感じたんです。
書きたい観点は色々あるんですが、とりあえず前々から書こう書こうと思っていたパロールとエクリチュールと落語、演劇の関係性について書いてみようと思います。

きっかけはずいぶん前に、「ただスライドに書いてることを読むだけなら、わざわざ説明しに来ないでいい」と言われたことです。(日本…というか会社は西洋と逆でエクリチュール至上主義なのか?笑)
まぁ、そりゃあそうなんだけど、本当にそうなんだろうかっていうのがずっと引っかかってて、というかそもそも、説明の意味ってなんなんだろう、と考えてたんです。

で、その悩みを解決する一つのきっかけが落語だったんです。
落語は一か月前くらいからハマってるんですが、じゃあ私に文句を言った人は落語家に同じことを言うのかな?と。
まぁ言わないですよね。古典落語をやる人に、Wikipediaに書いている内容とオチが一緒なら、話す意味がないなんて言ってる人がいたらかなりヤバい。
だから落語ってほんとすごいんですよね。パロールとエクリチュールの脱構築をしているというか、話し言葉と書き言葉が渾然一体となっているところに面白さがある、これは本当に面白さの本質的な部分だと思います。

じゃあ次に、そこまでは認めた人が、そんでもわざわざ生で見る必要なんかないじゃないか、WEBで充分だよ、って言ったとします。
これに対しての反論を今日の観劇で見つけたんです。

まずひとつ目は、まぁありがちなんですが、においとか振動とか、視覚と聴覚以外の要素があるじゃないか、という話。これは本当にそう。
でも私が改めて感じたのは、視覚と聴覚の解像度が段違い、という点についてです。解像度というより、ダイナミックレンジといった方がシンプルかもしれない。
例えば音について、小声から怒鳴り声まで生活と同じように聞ける。こんなのTeamsやzoomで再現できるわけないよ、オートゲイン調整してリミッターかけたりしてるんだもん。もちろんプロが本気でやったらリアルに漸近していくんでしょうけど、それはあくまでも漸近であることを多分プロであればあるほど認識してるんじゃないかなと思います。
だから私も、よいプレゼンテーション、生で観る価値のあるプレゼンテーションにはダイナミクスが必要なのではないか、と考えました。これによって、パロールとエクリチュールをよりいっそう混ぜることができる。書き言葉と話し言葉の渾然一体となった本質的な何かを、新鮮なまま伝えることができるのではないか、と。
まぁもちろん、その本質的な何かを考えることが、前提にあるんでしょうけども。

加えて思ったことが、エンターテイメントも地産地消化が必要なのではないか、と言うことです。
なんかこう、わざわざ馬鹿でかい会場で、馬鹿でかいスクリーンを映しながら、馬鹿でかい音量で酔っ払いながら踊る必要があるのか?もっと面白いこと、身の回りにあるのでは?という考えです。drum'n bass好きな私が言うなって話なんですが。
これについてはまた改めて書こうと思います。

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