リビドーについて

今日は、今日も、なのかもしれないが、やはり気づきがある。
知人とはなしていたところ、彼の歯に絹を着せぬバイタリティに、リビドーという言葉を思い出したのだ。
リビドーとは、よくよく考えてみるとすごくいい言葉なのではないか。多分世間一般には、性欲を連想させるのだけど、生欲という解釈がマッチしている。

生欲が足りていない、ということなのではないか。組織や社会に蔓延する病とは。生欲に対して、去勢された社会なのではないか。

そういう風にとらえると、多様性へのムーブメントは大いに歓迎すべきだ。生欲に満ちている。個が個として生きていくためのモメンタムが生まれてくればいい

しかし、人間は組織的・社会的な動物であるので、しばしばリビドーは、生欲は(性欲は)下品なもの、悪しなものとされるのだ。しかし、
A…もうほぼほぼにして共同体としての終末が見えている段階において、果たしてそうなのか
B…人間の組織的・社会的であるべきという律速条件が、テクノロジーによって克服されたとき、果たしてそうなのか

Aについては、七人の侍でもあったように、「もう切羽詰まってたら、やっちゃうよね」の論であって、今はその黄昏なのか。(もしくは
、黄昏であるかは確定しないので、この状況をにおいてのリビドーの発揮は悪しとすべきなのか)

Bについては、テクノロジー、なかでも、通信技術の発達が、人間の動物としての前提を覆す程度のものなのか

いずれにしても、論理的・倫理的な良し悪しに問わず、共同体の構成要素がリビドーを失うことは、共同体の維持という観点において、少なくとも悪しなのではないか。

では、「わがまま」という言葉が悪しなものとされるように、なぜ、中長期的な目線では是とされる「わがまま」が非とされなくてはならなかったのか。

いやそもそも、
・人間は共同体を組織しないと生きていけない(そこそこ確度の高い前提)
・共同体はすぐ足のひっぱりあいになるから、ルールができた
・ルールの裏に関係性という隠れた因子があったが、インターネットによってある程度無効化された

いやだから要するに、共同体の維持とリビドーの発揮は両立しうるし、しなければならないということを共通認識にするべきなのではないか。
「自律と自制の効いた」共同体の(それも巨大な)組織に対して、挑戦しないといけないのではないか。(それは、人類史上なかなかないような。)

なのかな。うーん。

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