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初期仏教の極意とは『一度しかない人生をしっかり生き切る』なのかもしれない。

昨日は花まつりでしたね。
神社仏閣サイト、『Marcionの匣』様にて、花まつり特集記事を掲載頂いています。

花まつりとは、仏陀の生誕のお祭り。
小さな仏像に甘茶をかけてお参りする。

昨日の、大須観音の花まつり

これは何を表しているかというと、仏陀の誕生の光景の再現だ。

仏陀は生まれてすぐに七歩あゆんで
右手で天を、左手で地を指し、
『天下唯我独尊』(我ただ独りとして尊し)
 =我々はそれぞれかけがえのない存在である
と言葉を発し、
その生誕を祝い龍神が甘露を降らせ、仏陀の体を清めたという。

まあそういう宗教的装飾のされたお釈迦様の話も面白いけれど、
私としては、一人の伝道者として生きた彼の生き様を、同じ人間として尊敬しているといった方が正直なところだ。
本来の仏教って、宗教というより哲学に近い。

そんな彼の遺骨(つまり真舎利)が、日本で唯一収められているのが、名古屋市千種区の日泰寺。
もちろん頑丈な仏塔に納められ、実物を拝むことはできない。

日泰寺の、真舎利が納められた奉安塔(門の向こう)



知り合いの、私と同年代のあるご住職は
「あれは本当に勿体無い。何年かに一度でもいいから、公開する形にした方が良かったと思うよ」
と仰っていたが、本当にそうだと思う。
仏陀が、悟りを開いてから死ぬまで40年以上も道を説き続けた、実在の一人の人間であることを、たくさんの人に知ってもらうことは大切なことだ。

初期の仏典には、仏陀の個人名はないそうだ。
それは仏陀自身の意思の反映によるものだということは想像に難くない。
(ちなみに仏陀とは本来個人名ではなく、悟りを開いた者、という意味)

後期の仏典にある「ゴータマ・シッダールタ」という名前は後付けである可能性が高いという。

初期の仏教が目指したのは、悟りを開き、輪廻の輪から脱すること。
だからお釈迦さまは二度と転生してこないのだ。
(つまり仏陀の生まれ変わりと名乗る人は…そういうこと)

『一度しかない人生を大切に、しっかりと生き切る』
究極的には、そういうことなのかもしれないな、などと思う。

参考文献 : 
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』
 馬場紀寿著 岩波新書

↓↓花まつりによせて、その起源、仏陀の人生、仏陀の遺骨発見から日本に一部が渡り日泰寺に奉納されるまでの経緯を書いています。
ご興味ある方は、ぜひ。

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