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第446回、自分が善悪的な概念を嫌いな理由
自分のブログを見ている人は既におわかりだと思いますが、自分は善悪的な概念があまり好きではないのですが、もっと言うならば、どちらかと言うと善の概念が好きではありません。
「どういう事なのだ?善が好きでないのなら、お前は悪が好きなのか?」と言われてしまうかも知れませんが、そもそも物事を善と悪のどちらかでしか考えない事が嫌なのです。
物事は善と悪のどちらかのみで成り立っている訳ではないですし、善ではな事が、イコール必ずしも、悪という訳ではないのだと自分は思うのです。
例えば、物を盗むという行為は、善(正しい事)ではないですが、ではその全てが、絶対に悪なのかというと、自分はそうではないと思っています。
「自分が贅沢をする為に、他人のお金を盗む」
これはいけない事であり、自分も悪い事だと思います。しかし
「食べる物がなくて、他人の食べ物を盗む」
これはいけない事だとは思いますが、必ずしも悪だとは思いません。では
「食べる物がない人の為に、他人のお金を盗む」のは、どうでしょうか?
人によっては、いい事だと思うかも知れませんし、やはり悪い事だと思うかも知れません。
法的には、他人の物を盗むのは、どれも悪い事であり、善ではありません。
しかしその行為の全てが、どれもが一様に、懸念するべき悪だとは、自分は思わないのです。
これはわかりやすい例としてあげた物ですが、世の中には、善(正しい事)ではない事の中に、必ずしも悪とは言い切れない物事が沢山あります。
それを、善ではない事を一様に悪とみなす事に、自分は懸念をするのです。
自分は宗教や道徳的概念を嫌い、ブログでもよくその批判をしていますが、そうした考えの全てを否定している訳ではありません。
「他人に良い行いをすれば、自分にも良い行いがかえってくる」
これは自分もいい考えだと思います。しかし良い行いをするのに、わざわざ見返りを考える必要はない様に思いますし、見返り(徳)の為に良い行いをするのは、場合によっては醜悪に感じてしまう事もあります。
「他人に悪い事をすれば、自分に悪い事がかえってくる」
これは、自分はあまり好きな考えではないですが、自分の行いを律する為の考えとしては、わからなくもないと思います。では
「悪い事をした人には、悪い事がかえってくるべきだ」
「悪い事をした人は、酷い目に合うのは当然。自業自得、天罰なのだ」
これはどうでしょうか?これは悪い事の内容によっては、そう思う事もあるかも知れません。しかしその思いは人を呪う気持ちにもなる事があるので、その気持ちが、善の心であるのかは、自分は懐疑的に感じています。さらに
「こいつには罰が下らなくてはならない。自分が天罰を下してやる」
これはどうなのでしょうか?場合によってはその気持ちはわからなくもないかも知れません。しかし少なくともこれは、純粋な意味での善ではないのだと思いますし、人が人を罰する以上、それは天罰ではないのだと思います。
自分達は、ニュースやSNSで悪い事をした人を見る度に、悪人は罰せられるべきだし、場合によっては、正しく生きている自分には、そいつらを罰する資格があるのだと考えてしまいます。
確かに悪い事をした人は、それそれ相応の罰を受けるべきですし、悪を憎む気持ちも大切です。
しかし罪を犯した人を裁くというのは、その道のプロである警察や裁判官であっても長い時間と慎重さを要する事であり、普通の人達が安易な気持ちでしていい事ではないのです。
社会的にいい事をしていた人が、悪事で警察に捕まった時、自分達はその人のいい面を、世間を欺く為の嘘の姿であり、悪い面がその人の本当の姿なのだと考えてしまいます。
しかし自分はその考えにも、否定的に思っています。
悪い事をした人の心が、100%悪い心で出来ている訳ではないと思いますしいい事をしていた事がその人の心にない、嘘の気持ちだとは限らないのだと自分は思うからです。
普段いい事をしている人が、ふと悪い事をしてしまう事もありますし、逆に普段悪い事をしている人が、たまにいい事をする事もあるのだと思います。
だから悪人を憎むな、悪人を許容するべきだと言いたいのではありません。
ただ自分が知れる他人の姿は、その人の極一部でしかないのであり、それがその人の全ての要素ではないという事を認識する必要があると思いますし、道徳や宗教的概念は、自分を律する為に使うべきであって、他人を裁く為に使う物ではないのだと、自分は思っているのです。
「正論ばかり言ってむかつく奴だな。お前に悪を憎む気持ちはないのか?」
と言われれば、全くない訳ではありませんし、ヒーロー物も大好きです。
しかし悪を憎む自分の気持ちを、自分は善の心だとは思っていないですし、悪と対峙するヒーローも、必ずしも正しい行いだとは思って見ていません。
自分は正しいから善だから応援するのでも、間違えているから悪だから憎むのでもなく、その時々の行い考えに共感できるかどうかが重要なのであり、共感が出来なければ、例え正義のヒーローであっても憎らしく思いますし、共感が出来れば、悪の存在でも好きになるのです。
自分は復讐物の作品も大好きです。その内容に共感が出来れば、復讐という行為も必ずしも否定的にはとらえていないですし、爽快感も感じます。
しかしその行為は、決して正義ではありませんし、自分の行いを正義という言葉で正当化した時点で、自分はその行為への共感性を失ってしまうのだと思います。
そろそろまとめに入ろうと思ったのですが、今回あまりいい落とし所を考えられませんでした。ただ善悪的な概念は、人によっても異なり、全ての人に一様に共感を出来る物ではないですし、また全ての人が同じ善悪的な概念を持つ事も、非常に危険な事なのだと、自分は思っています。
互いの信念の為に、人と人とが争うのは、悲しい事ではありますが、一つの善悪的な概念の元に、それにそぐわない人を阻害や排除をしたりするのは、様々な価値観や、人の在り方を否定してしまう事になりかねませんし、善人だけで社会が成り立つほど、誰もが正しい心だけを持って生きている訳ではないと思うからです。
少なくとも自分は、正しい心だけを持って生きている人間ではないのです。