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存在

 私は無口な子供だった。はしゃぎたい盛りの、黄色い声の湧く教室の中で、誰と話すこともなくひっそりと過ごしていた。休み時間も、トイレに行く以外は自分の席から離れることはなかった。ある日なんの前触れもなく、クラスの快活な女子であるUさんからの、私に対する嫌がらせが始まった。私がひとりだけタイツを履いているのが変だ、とか、制服のネクタイの結び方が生意気だ、とか、何かにつけ私に文句をつけるようになった。しかも、周りにいるクラスメイトにも同調するようにそそのかして。通りすがりに筆箱を落としたり、わざと足を引っ掛けてきたり・・・日々賢くこまめに意地悪をしてきた。

 私は窓の外を見る。そこにはいつも、誰をも拒むことなく、それでいて決して誰の思うようにもならない世界があって、そんな世界をぼんやりと見ていると、私の心はとても静かになった。

 家に帰ると、両親は工場で忙しく働いていた。毎日夜遅くまで働いて、休日も、あってないようなものだった。食事の時間はまちまちだった。台所の流し台も、洗濯カゴも、汚れ物が山積みで、母はいつも疲れていた。私は無口な子供だった。両親の機嫌の悪い時には、尚更無口になった。

 私は、窓の外を見る。そこには誰でもゆけるけれど、誰にでもはゆけない世界がある。見る人によって違う世界。私の友達は、そんな世界の中にいて、時折ひょいと姿を見せた。いかめしいけれど、決して悪ではない。ゴツゴツしているけれど、決して害ではない。私は、いつもどこででもひとりだったけれど、心底ひとりぼっちではなかった。常に、私をひとりにしない、不思議な存在を感じていたから。

 その存在を知ったのは、二歳のある夏の夜。尿意を催し目覚めた私の寝ぼけ眼に、ふたつの姿が映った。何気に目をやった ”そこ” にそれらの姿はあった。それらは、私が生まれて初めて出会う姿をしていたが、私は恐怖を感じることも、不信感を抱くこともなかった。ふたつの姿は、その、口らしきものを開くことなく、ただ静かに、ギラギラ光る大きな目で私を見つめ続けた。私は本能で、それらが自分に危害を加えるものではないと悟った。そしてその時から私は、私を傷つけることも責めることも、脅かすことも悲しませることもなく、ただただ私に目を向けてくれる存在があることを知った。

 朝、まだ寝息をたてて眠っている母を起こさないように、寝床から抜け出し、お湯を沸かしカップ麺を食べる。洗濯機の中で、脱水されたままの、湿った靴下を引っ張り出して履く。足がしめじめと冷えてくる。冷たさと気持ち悪さで、じっとしていられない。しかも靴下は、まだらにピンク色に染まってしまっていた。そーっと玄関のドアを開閉して、学校へ向かう。カップ麺にお湯を注いだ時、お湯が飛び散った手の甲が、水ぶくれになっていてヒリヒリ傷む。シミシミと冷える足と、ヒリヒリと傷む手。
(今日は、Uさんは私にどんな言葉を放ってくるのだろう。きっと、ピンクに染まってしまった私の靴下に、いち早く気付くのだろう。)
学校に向かう私に、私を包む世界は無言だった。でも、私を突き放したりせず、私をしっくりと懐に抱えてくれて、ひと時もひとりぼっちにはしなかった。見えなくても、そこに存在するものを強く感じた。そして、温もりを感じた。

 口を利かない私に、担任の先生は手を焼いていたようで、面談のために時間を割いて学校に訪れた母に向かって
「この子は ”啞(おし)”ですか?」
と、言い放った。”おし”という言葉の意味を理解出来ない私の横で、母は言葉をなくした。そして帰宅するなり、こらえていたものを一気に吐き出すように泣いた。私を責めたり、問い質すようなことはせず、ただ泣いた。私は、母の涙の意味を理解することが出来なかったが、担任の先生の言葉によってもたらされた涙であることは理解した。必死に何かをこらえるように、肩を震わせて泣いている母の姿を見るのは、とても辛くて悲しかった。

 私は窓の外を見る。嵐の日は心がうずうずした。ひゅおう ひゅおうと風が窓にしわって鳴いて恐ろしいくらいだが、私は風圧に負けじとガラス窓を、力をこめて開け放つ。あまりの風の強さに息も出来ない。雨が顔にバシバシと降ってくる。近所の大きな木が、魔物のように踊り狂っている。心の底からこみあげてくる、湧いて、湧いて、溢れ出てくる何かが胸を締め付けてくる。風の勢いと、体内に渦巻く躍動に、たまらなくなる。あたたかいんだ。風が。

 私は言葉を必要としなかった。重要なものだとも思わなかった。私に、日々淡々と意地悪をするUさんは、授業中は言葉巧みに利発的な言動をして、先生やクラスメイトから称賛の声を浴びていたが、私に対しては、来る日も来る日も暴力的な言葉を浴びせ続けた。そして、道徳の時間に、人を思いやる事の大切さを、せつせつと説く先生は、その同じ口から発した言葉で、私の母をひどく泣かせたのだった。

 私は、窓の外を見る。遠くで光る稲妻を見る。
「キャー」
と、悲鳴をあげて怖がるクラスメイトをよそに、耳をこらす。目を見開く。どうしてあんなに眩しい光がいきなり現れるのだろう。どうして、何もないように見える空から、お腹の底に響くような物凄い音が聞こえてくるのだろう。雷鳴は、音を、大きさを、速さを変化させ、稲妻は、いつどこで光を発するのか予測不能だ。表しようのない美しさで、どんどん迫ってくる。大きな力だ。叱られているんじゃない。責められているんじゃあない。
”君も、ほら、大きな声で叫んでみなよ!!”
”ほら、腹の底から自分の声で、自分の思いを、思いのままを、発していいんだよ!!”
いつも、外の世界は私を受け入れてくれて、私をひとりにしない存在が、あたたかくそこにいてくれる。
(すごいすごい。ほら、私の友達は、皆が恐れおののいているのをよそに、あるがままの姿で溢れる力を世界に轟かせている。)
私は、心躍らせながら目をこらし、聞き入った。

 同じ成り立ちの生き物ではない事は、出会った時から知っていた。初めて彼らの存在を知った時、寝ぼけ眼の私の眼に映った彼らは、二階の部屋の窓の外に浮いていたのだった。大きく開け放たれた窓の向こう側に、彼らはいた。私が行けない所に易々と行き、私が出来そうにない事を軽々とやってのける。そして、自然の中に溶け込んでいて、決して出しゃばらない。そんな世界はいつもそこにあって、私を包み込んでくれている。私は言葉を必要としない。黙っていても感じている。感じているんだ。いろんなものを。いろんなことを。

 春が来て、ひとつ学年が上がった時、Uさんが転校した事を知った。担任の先生も変わった。私は少しずつ変化した。嵐の日や、稲妻の美しく光り雷鳴が轟く日に感じた胸の躍動が、トックトック、ドックドックとどんどん大きくなって、私を突き動かすようになったのだ。
”お前は何だって出来るんだ”
”話せるだろう?”
”自分の言葉で自分の思いを。伝えることがちゃんと出来るだろう?”
温かい風にくるまれているような安心感。そして、大きな空から光となって降ってくる稲妻の力が、私を引っ張り、後押ししてくれているかのように、底知れぬ自信に包まれていた。いつしか外の世界との隔たりはなくなり、私は、私をひとりぼっちにしない彼らの存在を探さなくなっていった。と同時に、自分の生きているこの世界は、そこかしこに友達と同じ存在のもので満ちていて、常に自分達は同じ空間で共に生きているのだ、という事を感じるようになった。自分や自分以外の人達も、動物も虫も木も花も草も、山も川も、目に見えるものも見えないものも全て、共に生き、繋がっているのだ、と思った。

 必要としなかった言葉にも、大切な意味があるのだという事もわかった。やさしい、あたたかい、幸せな気持ちにさせてくれる言葉。勇気をくれる言葉があることを。使う人や、使い方で、言葉は素晴らしい輝きをもつのだった。

 私は、周囲を見渡す。そこは誰にも等しくある世界。私はひとりじゃない。今までも、ずっとひとりじゃなかった。これからもこの世界で、沢山の様々な存在の中のひとつとして、自分はこの世界に存在するのだ。

 また、春がやって来て、私は学年がひとつ上がった。新学期が始まり、先生から配られるまっさらの教科書をてにとって、ぺーじをめくるこの時が好きだ。私は、大好きな図工の教科書を真っ先に開いてみた。様々な工作物,絵画、版画等が目に飛び込んできて、私はとてもワクワクした。一ページ、また一ページ、と目を通していった。指先の感触で、ああ、最後のページだと思いながら目を落としたその瞬間、私の口から
「あっ」
と、小さな声が漏れた。そして、何かが私の全身を物凄い勢いで駆け巡った。全身の毛が全て逆立ち、ザワザワと音をたてているようだった。

 私が硬直した状態で、食い入るように見ていたものは、一枚の絵だった。その、力強く躍動的な絵の下には

   風神雷神図屛風    俵屋宗達
           建仁寺(京都府)
と、記されていた。

 その絵に描かれていた ”風神雷神” こそが、私にとって初めての、友達、という存在だったのだ。


                        おわり  


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