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運命の人

 行く先を自分で決めたのは、生まれて初めてだった。ちがやは53歳にもなるのに。

 「“運命の人”っていると思う?」
誰からともなく話題に上がる。まだ見ぬ未来への夢に溢れた女学生にとって、それはワクワクが止まらない話題だった。理想の人の像を思い思いに語り合う。出逢うシチュエーションや、恋の展開、幸せな行く末を想像して胸躍らせる。全身沸騰しながら。
”なんであの頃は、いつも身体中ほかほかと温かかったんだろう。新陳代謝が良かったからかなぁ。あの頃の自分が今の私を見たら、思考回路が停止しちゃうくらい、年を取っておばさんになっちゃったな、私。でも、こんな私の隣にいるこの人を見たら、停止した思考回路はどうなるのかな・・・爆発しちゃうかもなぁ。”
「この人が私の・・・あなたの”運命の人”」
遠い過去の自分がそこにいるかのように、茅はにっこり笑って紹介した。

 八年前の夏の終わり、茅は子供たちを連れて、隣町にある評判の良い眼科に向かった。長い休みの間に、一度受診するようにと記された、健康診断の結果報告を受けたからだ。ふたり共、視力低下を指摘され、診断の結果によっては眼鏡使用になるかもしれなかった。視力が悪くなっているらしい事は、子供達の口からも聞いていたから、そのうち眼科に行かなければと思っていた茅は、いよいよかと暗い気持ちになった。眼鏡使用になったら子供達は、夫のように、常に眼鏡と付き合ってゆかねばならないのか・・・。夫は神経質で、子供達が幼少の頃から、些細なことでよく怒鳴った。特に、ふとした弾みで夫の眼鏡に触れてしまった時には、凄い剣幕で怒った。相手は良いも悪いもよく理解できない幼子だというのに、鬼のような形相で怒鳴るのだった。
「お父さんはな、眼鏡がないと仕事が出来ないんだ!お父さんが仕事に行けなくなったら、お前たちが困るんだからな」
と。茅は眼鏡を使用するのは、車の運転をする時のみだ。確かに、常に眼鏡を使用するとなると、そうでない者にはわからない不便さや、苦労は数知れずあるだろうと予想する。が、共感は出来ない。あの怒鳴りようは異常だ。子供達と、夫の鬼の形相とは結び付かないが、不便な思いをするのかと思うと、やはり暗い気持ちになった。評判の良い眼科だけあって、待ち時間が延々と続いた。
「混んでるねー」
子供達と顔を見合わせて、苦笑いをする。子供達は時折欠伸をしつつ、携帯とにらめっこだ。待合室で順番を待つ人々の様子をうかがいながら茅は、皆何を考えているのかと思いを巡らす。どの人も早く自分の名前が呼ばれないかと願う気持ちは同じだろうな。そして、ここで受ける診察が、無難に終わることを願う気持ちも。
そのうち茅は、視線の先、患者の視力を測る視能訓練士の中に、気になる存在を見つけた。その人は、物腰柔らかに、とても丁寧に患者に接している。なんといっても、目が惹きつけられる理由はきっと、見目麗しい男性だからだ。話し方もとても穏やかで、声も茅の好きな声だ。茅は、チラリちらりとさり気なく視線をやる。この人はきっとモテるに違いない。この患者さん達の中にも、この人目当てで来ている人がいるのではないか・・・。茅は待ち時間が長いことを、全く苦痛に思わなくなっていた。

 子供達は二人共、やはり視力低下により、日常生活に支障をきたしていると判断された。本人達も思うところありで、眼鏡使用をすんなりと認めた。
「どんな眼鏡が似合うかなぁ~」
「選ぶの迷いそうー。クラスに、オシャレな眼鏡かけてる子いるんだよねー。私、何色が似合うと思う?」
帰りの車内では、これから購入する眼鏡の話題でもちきりだった。と、突然
「にしても、あの、視力測ってくれた人、めっちゃカッコよかったなぁー」
息子が惚れ惚れするように言った。茅はドキリっとした。脳裏に焼き付いていた美しい顔立ちがより鮮明になって、ハンドルを握る手にグッと力が入った。胸がコトコトと鍋の中の具が音を立てるように、可愛らしく鳴った。恋したみたいだった。

 子供達が眼鏡生活に慣れた頃、茅は違和感を感じるようになった。特に、外出する際に多かった。自分の身体の何処かに何か問題があるようなのだが、それが何なのかわからない。その日も、茅はいつものように自転車でスーパーマーケットに向かっていた。街路樹の葉の隙間からこぼれる光を、顔面に受けて走行していた茅は突然
「あっ」
と声を上げて、自転車を止めた。咄嗟に左手で自分の左目を塞いでみた。”ああ、これだったのか”茅はざわざわした胸の中の不安な影が大きくなるのと、頭のてっぺんの頭蓋骨と皮の間のような所から、全身に冷たい液体がスルスルと流れてくるような感覚を、同時に感じた。片目になった茅の右眼の中央に、真っ黒い塊が見えていた。違和感の原因は、これだった。いつからなのか、茅の右眼に異変が起きていたのだ。特に、今日のように天気の良い日に、違和感を強く感じていた気がする。茅は不安でいっぱいになり、買い物をそこそこに済ませると、早速眼科受診の予約をとった。何度も片目になってみた。何度やっても消えない影だった。特に明るい場では影が濃くなり、辺りが薄暗いと影も薄らぎ、影の向こう側に本来みえるべき物が、うっすらと見えたりもした。この影は何なのか。いつからこうなったのか。影が大きくなって失明したりしないか・・・。常に不安が付き纏い、茅は一日に何度も左眼を手で覆い、右眼の状態を確かめた。

 受診当日、視力検査を終えた後その人は、後に控えた検査のための、瞳孔を開く目薬を、茅の眼にさしてくれた。眼のことが心配で不安な事と、美しい人に目薬をさしてもらう緊張感とで、茅の鼓動は激しく高鳴り、その鼓動が指先にまで波打ってくるようだった。茅の眼から溢れる目薬を拭う彼の優しい指先の感触が、たまらなく全身に染み入った。”絶対にこの人優しい人だ”と、茅は確信した。視力検査の際、茅の発した言葉は
「はい」「いいえ」「右」「左」「上」「下」「わかりません」「ありがとうございます」
などといった、単発的な言葉ばかりだったが、全ての言葉ひとつひとつに、茅は全身全霊をささげた。そうせずにいられなかった。何故なら、茅の身体の全てが震えたから。ふるふる と。細胞。いや、それよりももっともっと小さい、ひと粒ひと粒のもの達が、一斉に震えるのだ。ふるふる と。
人は、小さな粒が集まって人たらしめているらしいことを、茅は最近になって知った。人だけでなく、この世に存在する全てのものが、小さな粒で出来ているらしい。信じ難いことだが、人が発する言葉も、感情や思いまでもが、小さな粒で出来ているらしい。茅はこれらのことを、すんなり”そうなのだ”と受け止めることにしたのだった。とても敏感で、接する相手の纏う雰囲気や言動、表情、そんなものにこれまで散々気を使い、精神を擦り減らしてきた茅だからだ。人と接する度に様々な事を考え察し、先回りして失敗したり、変に気を使い過ぎて疎ましがられたり、八方美人だと陰口をたたかれたりした。そんな自分が嫌でたまらず、ある頃から茅は人と距離を置くようになった。人の事に介入しないように、自制するようになった。目に見えないものに、敏感に反応してしまう茅だからこそ、すんなり納得できたのだった。
”この世のものは、目に見えるものも、そうでないものも、全て小さな粒で出来ている”
「粒つぶ・・・みいんな粒つぶで出来ているのかぁ」
そのことを、頭の中で考えてイメージしようとしても、ピンとこなかった。ところが、あの人のことを考えると、忽ち全身の粒つぶが,ふるふると震えだすのが感じられる。あの人・・・名札に”入江 准一”と、記されていた。
「入江准一さん」
声に出してみると、茅は、自分の発したものが、優しい小さなもの達で成り立っているのを、とても強く感じた。と同時に、茅の身体の中の一番温かい部分も、更に温かさを増すのだった。

 幾つかの検査を受けた結果、茅の右眼は”盲点拡大症候群”と診断された。黒い影が徐々に大きくなり、失明する可能性もあるらしく、定期的に医院に通い、様子を見ていく事になった。原因は、はっきりとはわからないらしい。感染?ストレス?加齢?
“加齢かぁ~近頃何でもかんでも加齢で片付くんだよなぁ”と、茅は何だか寂しい気持ちになった。いや、でも、と思い直した。でも、複雑じゃなくていいかもな。逆にあらゆる事を、加齢のせいにしてしまえば、あれやこれやと思い巡らす事も、しなくていいもの。50年近くお世話になっている身体だ。特に、大切に扱っている自覚もないし、そこかしこに不具合が出てきて当然なのだ。外からは見えない部分も色々と傷んでいるけど、常に人目に付く顔にも、鏡を前にする度に、必要としないものが増えている。線とか、薄茶色の模様とか。ひょっとしてこんなのも、小さな粒つぶの仕業なのかと、ちょっと憎たらしく思う。自分以外の女性は皆、素敵に輝いていて、ちっとも老いてないように見える。身体の不具合からくるものなのか、茅の気持ちがどんどんと暗く重くなってゆく。私って何の取り柄もない、冴えないおばさんだ。
「ハァ~~~あ」
大きなため息をつくと、萎んだ心と身体が極限まで萎みきり、茅の周りは、茅の口から排出された真っ黒い粒つぶが蔓延した。
「私、いつもこんな風に、暗い気持ちで溜息ばかりついているから、バチが当たって眼がこんなことになっちゃったんだ。きっと」

 茅は、常に周りを伺う人間だった。物心ついた頃からずっとだ。そうしていることが、生きやすかったのだ。精神的に。茅の両親は印刷業を営んでいた。ふたりで始めた工場を軌道に乗せようと必死に、朝も晩もなく働いていた。営業も作業も配達も経理も、全て自分達でこなすのだ。しかも、茅と年の近い弟ふたりの幼子を抱えてのことだから、それはそれは大変だった。子供だって大変だった。訳の分からない小さなうちから、祖母の家や保育園に預けられ、母に抱かれる時間は、そうない。訳が分からないといっても、子供なりに敏感に物事を感じ取る。人々の感情を。預けられる先々で、自分がどのように振舞えば、そこに滞在する間、難無くいられるか・・・自分がどんな子でいれば、親は平穏にいられるか・・・常に場の雰囲気や人の顔色を察知して、言葉を発し、行動する。そうして茅は生きてきたのだ。親を悲しませてはいけない。家族を守らなければと。

 そんな茅だが、これまでに二度、乱を起こした。
「看護師になりたい」
と、高校生の時に、卒業後、看護学校に進む事を希望し懇願した時と
「結婚したくない」
と、今の夫との結婚話を、拒否した時だ。どちらも却下された。乱を起こしたものの、茅はそのどちらも、戦うことも逃げ出すこともせず、親の指し示す方に進んだ。これまでずっと自分の意志を貫いた事はなく、自分ひとりで、進むべき道を決めることをしてこなかった。そのうち、自分が好きなこともやりたいことも、自分に与えられたこの命を、どう生きていったらいいのかも、分からなくなってしまった。そしてそんな自分を”ぬるま湯に浸かった平和ボケした甘ちゃんだ”と情けなく思うばかりで、一向に前に進まない、堂々巡りな茅の思考回路なのだった。

 夫の事は、同士だと思う事にした。家庭を成り立たせ、もし授かったなら、子供達が巣立っていくまで見守る。同じ目的を遂行するための、同士だと。茅は夫に対して、一度も愛という感情を抱いた事がない。ドラマや映画の中でラブシーンが始まり
「愛しているわ」
などという台詞が耳に入る度に、ブルッと身震いするほど、噓くさい言葉だと感じた。愛し合ってなくても、結婚する人間はいるのだ。茅は心の中で呟く。昔だってよくあったではないか。顔も知らずに、嫁入りするなんてことが。今でこそ、本人の意思が尊重されることが多くなってきたけれど、愛し合って結ばれるばかりじゃない!!しかも、結婚してから、ふたりの愛が深まってゆくなんてことも、あるとは限らないんだ!!茅の心の呟きは、叫びに変わっていた。茅はこれまで何度も、夫に愛情を向けようとした。尊敬の念を抱き、信頼しようとした。でも、そんな事は、そんな想いは、やろうと思って出来るものじゃない。生まれてくるものなのだ。自然に。と、悟ってからは、その努力は一切やめた。人生の大切な時間と労力を、費やす必要はないと感じたからだ。どうしても、生理的に無理だった。唇を合わせることも、夜の行いも、手を触れるのでさえ嫌だった。欲望も何も湧かない。形式的にしなければならない時は、夫を、架空の人物に想定したうえで、出来るだけ時短の努力をした。茅は、そんなふうにしか、やり過ごすすべを知らなかった。仕方ないではないか。夫に対して、申し訳ないのか?こんな風に接している自分は、極悪な人間なのか?人の顔色ばかり伺っているのに、こんなにも心の中では、人を欺いている。茅は、自分を責めているうちに、一体自分は何なのかわからなくなり、もう消えてしまいたくなる。一体自分は何故、愛してもいない夫に一生添い遂げる道を選び、愛してもいない夫の親戚にも、愛想を振りまいているのだろう。この先、どれだけ続くかわからない夫との夫婦生活を思うと、嫌気と不安と絶望とで、瞬く間に胸が塞がってしまう。身体の中に、真っ黒なドロドロしたものが充満していて、それが喉元まで来ていて、声にならないうめき声を吐き続ける日々だった。誰にも言えない。それにきっと、誰にも理解してもらえない。茅には、今までもこれから先もずっと、いつも行き場がないのだ。心の拠り所が。

 「岡さん」
「岡 茅さん」
優しい顔が、優しい声が、茅の心を元気にする。茅は、身体中で喜んだ。”ラッキー!”と、心の中でガッツポーズをし、待合席から立ち上がった。忙しく動き回る視能訓練士の中から、茅に声をかけてきたのは入江だった。准一は感じていた。茅から自分に伝わってくる、想いを。あの夏の終わりの日、茅が子供達と共にこの検査室に入ってきた瞬間、准一は感じ取ったのだ。全身で。”この人だ”と。

 准一は、通常の人には見ることの出来ない存在を感じ取り、そして、本来ならば人間には、聞き取ることの出来ないであろうものを、聞くことの出来る子供だった。幼いころは、自分の見聞きしたことを、周囲の人間にも知らせたりしていたが、そうすることで、自分と周りの人との隔たりを大きくしてしまうことを悟り、口にする事をやめた。年齢を重ねるにつれ、特別な存在は、そうそう姿を現さなくなっていった。が、やはり感じるのだ。人間を含む、目に見える全ての存在するもの以外にも、この世界に存在している様々なもの達を。そして、そのもの達の発するものを。茅から届いてくるものは、心地よく、温かみをもったものだった。初めてだった。こんなふうに、人から安らぎや、ぬくもりを感じたのは。でも、初めて感じたものではないものも、混ざっていた。茅のものとともにある、その存在は、准一にこう告げた
「やっと逢えた」
と。

 小さい頃から准一は、知らされていた。准一と同じくこの世に存在する、特別なもの達に。既に、存在している、准一にとって大切な人に、後々必ず逢えるから、と。その人は、准一の魂の前世の宿主が愛した人の、生まれ変わりなのだと。
「その人は、突然逝ってしまった。お前を残して、海に沈んでしまったのだ。不慮の事故で。だが、魂は、愛は生き続けた。愛は時を経て今に至る。愛はこの世に溢れてはいるが、お前はその人に出逢い、愛を身をもって感じるだろう」

 准一は、自分の進むべき道を見定め、目の前にある課題に取り組んできた。黙々と。いつか出逢うであろう、魂で結ばれた愛する人に想いを抱きながら。人とは違う特性を持っている事に戸惑い、思い悩む日々もあったが、この広い世界に、生あるものは人間だけではない。ましてや人間が全能の神であるかのように、全てのものを支配し、自らの思うようにしていいわけがない。この世に存在する様々なものを感じ取ることの出来る、自らの能力に准一はいつしか、感謝の念を抱くようになっていた。そして、この世に命を授けてもらえて、本当に幸せだと思った。

 茅の瞳を覗く度に准一は、どうしようもない悲しみで苦しくなった。茅の心情が、これまで積み重ねてきた日々の重さが、途轍もなく悲痛な叫びになって、准一の脳を殴りつけてきた。准一は願った。茅の中に、少しでも温かな火が灯ることを。茅の瞳の中に、希望の光が灯ることを。そう願いながら、茅に接した。茅を想う愛情が、日ごと大きくなっていった。

 准一が視能訓練士を目指したのは、目が不自由なために、苦労の多かった祖母の影響が大きかった。人が生活してゆくうえで、大きな役割を持つ目に、何らかの理由で不具合が生じ、日常生活に支障をきたしたり、不安を抱えている人の助けになりたいと思った。その思いを胸に、養成施設で学び、国家資格を取り、視能訓練士になったのだった。勤務しているこの眼科医院には、素晴らしい医師が複数常勤していて、とても人気が高い。そのため、日々来院する患者数は、とても多い。准一は、この眼科を頼って来院する患者、ひとりひとりに対して、自分は丁寧に的確に検査をして、その人にあった対応がしっかりと出来ているのか不安になることがある。自分はちゃんと、医師のサポートをすることが出来ているのだろうか・・・と。限られた時間の中で正確に検査をしなければならず、又、年齢も幅広く、眼の症状も心の在り方も様々な人々のひとりひとりに寄り添い、対応する中で、准一はひどく疲弊し、心の波が荒立ってしまうことがある。必死でやっていても、思うようにいかないことがあるのだ。焦ってはいけないと思いながらも、なかなか心の波は収まらない。
 そんな准一の荒立つ波は、茅が穏やかになだめてくれる。会話のないふたりだが、感じる。何かを。同じ空間に茅がいるだけで、准一は安らげる。茅の身に纏う、茅にしかない清香。茅が歳を重ねるごとに経てきたものが、茅の身体のそこかしこを彩り、形作っている。それら全てに、とても癒されるのだ。

 茅と准一は、お互いに言葉に出来ない何かを感じながらも、お互いに惹かれあいながらも、静かに時を過ごしてゆくしかなかった。どうコンタクトをとっていいのか、きっかけのないまま月日は流れてゆく。 

 茅はぼんやりと、近所の公園を歩いていた。普段は、買い物に行く際に、突っ切っていくくらいしか通らなくなった公園なのだが、ふらりと歩いてみたくなったのだ。白い息を吐きながら空を見上げると、すっかり葉を落として清々しいくらいの木々達が、涼し気な顔で見下ろしてくる。子供達が小さい頃は、ほぼ毎日ここに来て一日の大半を過ごした公園。四季折々、泣いたり笑ったり、いろんな日々を過ごしたなぁ。子供達が一番好きだった事は、木の実拾い!私も大好きだった。いろんな所に、その時々の子供と自分の姿が甦ってきた。それは、今いる公園内に留まらず、様々な場所での様々な茅と子供達の姿だった。
「子育てなんてあっという間よ!」
なんて年上の人に散々言われたけれど、いやいやどうして長い長い。まだ今だって子育て中だし・・・。茅は思う。だって親は、死ぬまで親だし。と。でも、お陰様で子供達は成長して、それぞれが自分の道を手探りで探してる。ここまで成長してくれたのも、この公園のお陰だ。
「どうも ありがとう」
くるりっと公園を見渡してそう言った茅の眼に、優しい光が差し込んだ。茅の大好きな、赤い実をつける大樹の前に、入江の姿があった。入江と目が合った途端に、茅の鼓動はコッコットックトックと速まり、全身がフルフルと躍動し、顔面は驚きと興奮で真っ赤になった。
「はっ」
声にならない吐息が漏れた。准一も同じだった。どうリアクションしていいか戸惑うふたりの距離は、いつまでも縮まらず、しばらく互いに目だけは離さずにいた。茅は、ひょっとして入江は、私が時折眼科に訪れる患者だという事を、認識していないのではないかと思った。恥ずかしい思いをする事を覚悟の上、勇気を出して
「入江先生?」
と、声を発してみた。視能訓練士の人を何と呼べばよいのかわからず、茅はいつも入江のことをそう呼んでいた。入江は、ひと呼吸おいてコクリと頷いた。院外での入江は、いつもに増して若くて優しそうで、最高にカッコよかった。茅はもう渾身の力を振り絞り、渾身の勇気をかき集めて、再び入江に声をかけた。”こんなチャンスはもう、最初で最後だ!”と強く思ったのだ。
「先生、よかったら、お茶しませんか?」
茅は、凄く大胆なことを言ってしまったような気がして、顔が一気に熱くなった。入江は、切れ長の涼しげな瞳を、一瞬楕円形にした後
「お茶・・・しましょうか」
と答えた。季節は大寒の最中だったが、ふたりの周囲は、花が咲きださんばかりの、春めいた陽気になっていた。頬を赤らめた、はたから見て一体どんな間柄なのか全く謎なふたり組だった。ふたりは、自販機でそれぞれが購入した温かい飲み物を手に、ベンチに腰掛けると、ぽそりぽそりと語り合った。入江は、この辺りに用事で来て、この公園を通りかかったこと。そして、入江の好きな木が目に入ったから、立ち止まってみていたのだと。その木の名は”クロガネモチ”茅は、この木の、葉や立ち姿、赤い木の実をたわわに付けた姿が、何ともいえず好きだった。それに、縁起の良さそうな名前にも、惹かれるものがあった。“うわー先生と、好きな木が同じだなんて”茅の心は、踊った。茅は、春の野原に、ピクニックに来ているような感覚になった。心地良い。心がほわほわする。今、このまま時が止まって、永久にこのままでもいいくらい、幸せな気持ちに溢れていた。准一も安らぎの中にいた。茅の傍でしか感じることが出来ない、穏やかな気持ち。准一は、ずっとこの安らぎの中にいたいと、強く思った。准一の鼓動がどんどん速くなり、抑えきれなくなった。鼓動の勢いに押されて、口が開いた。
「茅さん。僕は、あなたに出逢う日を、ずっと待っていたんです。小さい頃からずっと。やっと・・・」
准一は興奮と緊張のあまり喉が締め付けられて、話が途切れてしまった。
「・・・・・」
茅の身体は、次第に震えだし、その震えが止まらなくなってしまった。え、小説で読んだような、ドラマや映画で見たような、そんな話ではないか。いや、テレビで時々やってる、人を驚かせる番組みたいなもの?でも、私に限ってそんなのありえない。しかも、入江先生が仕掛人とか、考えられない。いや、あり得ない。先生は、私をおちょくっているのか?裏寂しそうな地味な幸薄そうな私を、常々哀れに思って、それでこんな話をして、面白がって反応を楽しんでる?返す言葉は見つからず、茅はギュッと缶コーヒーを握りしめて震えていた。
「パチン!」
「うわっ」
一瞬、茅の頬を何かがはたいた。茅が頬に手をやると、ひんやりと冷たかった。途端に、茅の身体がざわめきだした。そして、脳裏にある光景が甦った。二十歳になったある冬の日、うたた寝していた茅の頬に、たった今起こった出来事のように、”パチン”と何かが触れて、茅は眠りから覚めたのだった。あの時も、頬がひんやりと冷たくなっていた。
「私、二十歳の冬のある日にね、何かを感じた。そうだ、今みたいにピシャリと頬をはつられて・・・そして誰かの声を聞いた。嬉しそうに笑ってる声」
”あの声は、人ではない何か別の存在のような声だったな”
茅は思わず、今甦ったばかりの記憶である、過去にあったできごとを、夢中で入江に話していた。話さずにいられなかった。
「その日は、1月28日だったのではないでしょうか・・・」
入江は茅の瞳をじっと見つめた。
「その時、僕がこの世界に誕生したんです。きっと何かが、茅さんに知らせたのですね」
入江は優しく微笑んだ。
「茅さん。僕はあなたに逢うために・・・あなたに出逢えてよかった・・・」
「僕は今日で、33になりました」
“今日は1月28日。そして、あの出来事があった日も、間違いなく1月28日だった。33年前の今日、その日は大好きだった祖父の命日だったから、仏前で私は祖父に、大人の仲間入りをしたんだよと報告したのだった”茅の身体の震えは収まらず、収まるどころか身体の中心から、どんどん新しい震えが波打ってきた。頬が、今度はほんわかと温かくなった。そっと頬に手をやると、茅の目から溢れた温かい涙が手を伝っていった。茅は今、この時のためにこれまでの人生があったように思えた。今、ここでこうして准一の言葉を聞くために。

 茅は思えば水に弱かった。水難の相があるらしく、生まれてこのかた水に関わる事故に遭うことが多かった。溺れる、怪我をする、水がらみで物もよく壊れた。毎日の洗顔の際にも、ほんのしばらく水に顔を浸すのですら、息苦しくて苦手なのだ。だから准一に前世の私が、水事故で命を落としたらしいと聞いた時には、深く納得したうえで、よく今まで命を落とさずにこれたものだと、しみじみ思った。
 そして、准一に出逢うまでの、自らの道のりを振り返ると、茅は、やはりこの世の中は見えないもので溢れていて、見えなくても聞こえなくても、何かが存在している。そして、働きかけているのだ、それぞれが、それぞれに対して。と、不思議な気持ちでいっぱいになった。

 興奮冷めやらぬ日々が続いたが、ようやく冷静さを取り戻すと茅は、運命の人に出逢えた喜びと並行して、この先一体自分はどうしていったらいいのか、てんでわからなくなってしまった。ただ、今の生活を続けていく気はなかった。茅は、家を出ることにした。自分の心に真っ直ぐに生きる道を行こうと決めた。茅は、これまでの思いを全て夫に吐き出した。長い時間はかかったが、お互い、愛のない形だけの夫婦という囲いの中から解放された。長い夫婦生活の中で、茅の、夫についての一番大きな気付きは、夫が愛のない家庭で育ったのだったということだった。親元から巣立ち、独立した子供達にも、再出発するのだと伝えた。准一の話をすると、とても驚いたが理解してくれた。

 茅は、行く先を決めた。准一と共に生きてゆくことを。自分で行く先を決めたのは、初めてのことだった。53歳にもなるのに。やっと心の中に、灯火がともった気がした。茅は、思う。よく考えると、人に逆らわずに進んできた道のりでさえ、最終的に自分で選んできたのだった。これまでの過程の、どれひとつ抜けていても、准一との出逢いは無かったかもしれないと思うと、どんな時であれひたすらに生きることを、やめてはいけないのだと強く思った。”運命の人”なんて、茅にとっていつからか、空想を楽しむという娯楽的要素でしかなかった。でも、現れたのだ”運命の人”が。茅はそのことを、ずっと昔、頬を染めて夢見ていた自分に、そっと報告する。

 茅は、准一の傍が大好きだ。ただ傍にいるだけでいいのだ。それは、准一も同じだった。ただふたり、背中を合わせて本を読む。目を閉じて、鳥の囀りに耳を傾ける。温かい飲み物を飲む。「おいしいね」と言いながら食事をする。心が満たされ、安らかになる。鼓動と鼓動が合わさってとけてゆく。

 准一は、視能訓練士として、日々忙しく働いている。患者に寄り添い、知識を増やし、技術を向上させようと、学び続けている。茅は、福祉に関わる仕事に就くために、勉強中だ。茅は、ノートに走らせていたペンを置いて、ふと、自分の年齢と准一の年齢を、思う。いくら時を経て、魂同士固く結ばれているとはいえ、やはりはたから見ると奇妙な組み合わせの私達。私が前世で、一体どのような容貌で、声で、准一の前世の人物と愛を紡いでいたのか、想像もつかないし、恥ずかしくて、知りたくもないような気持ちになる。茅は、思い直す。人から何と思われようが、どう見られようが、いいじゃないか。これまで散々そういったものに、気を使ってきたのだった。そもそも人は、皆、小さい粒で出来てるんだし、元は同じなのだ。人類皆粒つぶなんだから。茅は、准一という存在のお陰で、自分が大きく変わったことを知った。茅の中で准一は、大きな拠り所となったのだ。 

 相変わらず、茅の右眼には、黒い影がつきまとっていたが、悪化はせずにいてくれている。茅は、准一と過ごすようになり、眼の不自由さをそれほど感じなくなっていた。ひょっとしてそのうち、知らない間に、この影は消えてしまうかもしれない、とさえ思うようになった。目に見えるものが全てではないとは思うけれども、やっぱり私は准一さんを見ていたい。ずっと。と、茅は思う。そして、目には見えないけれど、大きな愛を感じるのだった。身体中に。

 准一の傍で、茅はいつもふるふると全身を震わせている。
「私、准一さんといると、身体中が嬉しくて、小さな粒つぶが喜ぶ音が聞こえるんだよ。准一さんにも聞こえる?それにね、私、どんどん健やかになってる気がするよ」
”ありがとう!”
茅は、少女のように微笑んだ。准一はそっと優しく、茅を包み込むと
「茅さんは大人だ。でも子供っぽいところもある。明るくて朗らかだけど、沈んでる時もある。クルクルよく動く眼も、バタバタと走り回るところも、そそっかしいところも、いろんなことに気を使い過ぎてしまうところも、水難の相があるところも。数えきれないいろんなものでできている、この、茅さんが、僕は大好きだ!」
「茅さんが、今まで生きてきてくれて、今、生きてくれていて、僕は本当に幸せなんだ」
”ありがとう”
と言って、大切に、でも力いっぱい抱きしめた。

ふたりのからだから、大きく広い世界へと、幸せに震える優しい響きが、どんどん、どんどん広がっていった。ふるふる ふるふる と
 

#短編小説

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