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一月二十二日
束の間の栄華は楽しんだか〔竭丞相〕、もう十分だな。
「キングダム」には考えさせられる台詞が沢山あります。 当今の名台詞などより吟味すべき言葉は、決め台詞よりむしろ何気ないシーンにこそ誠の価値があるのです。
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出典「キングダム」嬴政
束の間の栄華は楽しんだか竭丞相、もう十分だな。
《荒筋》
秦国の下僕の少年に漂と信という秦国の下僕の少年がいる。少年達は下僕の身から這い上がろうと木剣で剣技を磨き、戦場で出世して何れは天下の大将軍になろうという夢を共有していた。
信は漂と自身の夢を叶えるため、王子の玉座奪還に手を貸す。逃避行で一緒になった河了貂と嬴政の三人で行動を共にする。
嬴政達は助力を借りるために山界の王に会いに行く。祖先が受けてきた恨みを晴らすべく山の王は嬴政を処刑しようとするが、嬴政はそんな山の王と話をし、俺の路は中華を統一すると宣言する。
話の途中で割って入った信の言葉もあって、山の王・楊端和は、嬴政と信の言葉に心を動かし、秦王嬴政と山界の盟を結ぶことを誓う。
かくて山の民と嬴政達の連合で玉座奪還作戦に入り、嬴政達は咸陽の門をくぐることに成功する。
しかし、王弟の竭丞相に仕える参謀肆氏によって正体を見抜かれたため、嬴政は信と一部隊を遊撃に離し、自らを明かすことで囮役になる。
《解説》
❤️栄華栄達は儚いものです。 何のためにあるのか?
竭丞相の場合は栄達の範疇なのですが、栄華の双方ともに永久の価値はありません。
栄達は登り切るか、出世を支える組織が壊れればそれまでです。栄華も富財産が尽きれば終わりです。
「道」「理」を知る一部の人達は栄えの地位に執着拘泥したりしません。
米国実業家で鉄鋼王と呼ばれたカーネギーは死ぬときには全ての財産を公共施設へと寄付しましたし、
前漢の名臣・張良も留侯を授かった後は赤松子と仙人修行をしたいと俗世から離れます。
しかし、俗世から離れるとは社会から離れると同義ではありません。張良も留侯の地位を捨てずに高祖の後継者選定に助言を呈しました。
人との往来を一切断つか、人事を全く捨てることが定義ではなく、生きるものとして大自然の世界、本来の生命の時間に戻ることが、俗世から離れることです。
❤️永久の世界とは栄光、それは生命進化の世界
栄光に生きるとは、世界の頂点に至るの意味ではありません。あえて言えば“極める”が正しい語義でしょうか。
英雄と呼ばれる人物、何らかの偉業かパイオニアの人物達は栄華を得た人物でもありますが、その本当の価値は人間社会に進歩進化の価値を与えたことに他なりません。
もっと突き詰めれば栄光とは生命の時間に貢献するということです。
英雄偉人は確かに栄華を得た人物達でもありますが、その末路は哀れを誘うことは伝記を読むだけでも分かります。
アレクサンダー大王、カエサル、ナポレオン、ヘンデル、スコット、クック、織田信長、野口英世など無数の偉人達は死の間際でも賑やかさに看取られていません。
それでも栄光に至った偉人達は死後でさえ人間社会に名前と共に偉業が後世の道となり、次の時代の指標となります。
彼らは死を乗り越えている。死を乗り越えて恩恵を次に与えている、死後も尚生命の進化に貢献しています。
栄光に生きる。それは死しても尚、人の生命と進化に貢献する意味なのです。
その前では栄華も栄達も従属の位置に過ぎません。むしろ、栄華栄達とは栄光のために使われるべきでしょう。