読書#9-3「21 Lessons」著:ユヴァル・ノア・ハラリ
この記事の位置づけ
「21 Lessons」の読書録。以下の続き。絶望と希望の章での気づきを書く。
気づき(絶望と希望)
プーチニズム
著者は群を抜く賢者であるのは間違いないが、預言者ではないらしい。2022年現在、ロシアはウクライナへの物理的な侵攻を行っている。もしかすると著者はこのシナリオも想定していたのかもしれないが、そうならないことを祈っていたのかもしれない。
ただ、ここに書かれているプーチンは、暴力を有してはいるがその限界を認識している理知的な人間として描かれている。この見解は彼だけでなく、多くの専門家がそう信じていた。ウクライナでの戦争が始まるまでは。
私もニュースを追っている段階ではそこまで事態が発展するとは思っていなかった。聡明な著者でも見誤ったのならば仕方ないと思える。
まぁ、合理的に考えれば戦争など起こすメリットはないのだ。この本では、戦争に勝って利益を得るという技巧は失われたと述べている。一昔前は、戦争は魅力的だった。勝てば、労働力と土地と金が手に入る。しかし、現代、価値があるのは、そんなものではなく技術的な知識と組織の知識であると著者は述べる。
もはや、戦争を起こす意味がない。はずなのだが……。
この先、どうなるか、私のような愚者にはわかるはずもない。ただ見守るのみ。できれば、プーチンの戦略的ミスであってほしい。これが新しい打算的な行為だとすれば、新たな戦争が始まることになる。
神は存在するか?
正直、著者が何かしらの神を信仰しているのかどうかわからない。ただ、いたずらに神という言葉を濫用することに忌避感を覚えているのは確かだ。彼が批判するのは、ただ自分の主張を肯定したいがために、神の名を用いること。
神があの土地を欲している、神があなたを憎んでいる、神がその考えを否定している、どんな理由であれ、あなたの主張に神の名を用いることは謙虚さに欠ける。
著者は、いわゆる名ばかりの”神”をシニカルに捉えると同時に、人智の及ばない神秘的な存在については否定していない。神秘的な存在はどんな名前をつけられようと気にしないだろうと。
日本にいると、神という存在があまりにテキトーに扱われる。マンガでも小説でもいいが、様々な神がいたずらに登場する。それこそ八百万の神が。それは私達にとっての神があやふやな存在だからだろうか。それともとても身近な存在だからだろうか。
現実の問題として、神を扱うとき、私はとても躊躇する。欧米での認識との差異がどれほどあるかわからないからだ。不用意に発言することはできない。その点で、著者はやけに自由に発言しているように思える。私から見ると、そこまで言っていいの? と恐れるほどだ。
この手の話はさほど語らず頭の中に仕舞い込む方が賢明な気がする。いわゆる、触らぬ神に祟りなし、である。