読書#18-2 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」著:熊代亨
この記事の位置づけ
「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の読書録。以下の続き。
気づき
友達市場のグローバル化
地元の人間関係で人生が終わっていた時代は、はるか昔のこととなった。今となっては、どこに住んでいるのかも名前も顔もわからない人と、人間関係をつくることができる。
自由が増えると、責任も同時に発生する。
人間関係は強制されない代わりに、自分で選択して、構築しなくてはならなくなった。積極的に、自発的に。
もしも、何もせずにただ待っていたら、人間関係は得られない。もはや降ってくるものではなくなったからだ。自発的に行動しなければ自然と孤独になる。その結果、孤独を嘆く人が増えたというのは妥当な推測だろう。
人間関係には、メリットもあればデメリットもある。そのリスクを許容しなければ、人間関係を自発的に取りにいくことはできない。
ゼロリスク主義者の多い日本人には、いささか酷かもしれないが、社会はそのように変容した。ついていくしかあるまい。
こころとは何か?
これは精神科医である著者の体験談なのだと思われる。「こころ」などという曖昧なもの、と自分で言ってしまうのがおもしろい。まぁ、本心ではないのかもしれないが。
治療を行うためには、科学的であった方がいいのではないかと思う。ただ、著者は「こころ」を見ていきたいという。このあたりは私には理解できない領域だ。
素朴に考えると、「こころ」というブラックボックスとしてあつかっていたものが、認知行動学や脳科学によって解明された。つまるところ、それらはオーバーラップしていて、対立概念ではないと思われる。
だが、著者は別の概念として扱っている。このあたりをもう少し説明してほしかったところだ。
健康リスクについて考えよう
コロナ禍において、私達は健康リスクについて考えなくてはならなくなった。なぜならば、ゼロリスクは存在しないからだ。新型コロナという病は、常に存在し、これからも存在し続ける。その危害の大小は別として。
この本の文脈では、新型コロナに関してのものではない。しかしながら、健康リスクを考えるにあたり、連想せずにはいられない。
煽られなければ、自然と病気と共存することができていた。日本には、そもそも多種多様な病気が存在していたし、それらをゼロにしようなんて夢物語を叫んだ者はいないし、ロックダウンをしたこともなかった。
だというのに、今回は明けることのないパンデミックだ。このことから考えるに、これまでは病気と共存できてきたが、それは健康リスクを考慮できていたからではなく、いっさい考えていなかったからではないかと思われる。
これから、私達は新たなタスクが課せられる。健康リスクを考慮して、経済活動と健康の天秤を眺めながら、いい塩梅で運用するというタスクだ。
何も考えずにゼロリスク信仰をしていた方が楽だろう。既にタスクが多すぎてオーバーフローしている気がするのだけど、現代社会はいったいいくつのタスクを私達に課せば気が済むのだろうか。
子育てを損得で語るな! とは言うけどさ
こんなこと言っていいのか?
いや、実際そうだったかもしれないけれどさ。言い淀んじゃうよね。
少子化が嘆かれて久しい日本社会であるが、この本で書かれているとおり、現状、子育ての負担が多すぎて、子供が増える方に向かって社会的な力が働いていない。
改めて思ったが、本当に子育ての経済的、時間的コストが大きすぎる。コストという面で考えた場合、子育てはできない。
もちろん子育てに損得を持ち込むべきではないという意見もわかる。私も同じ考えだ。けれども、度外視するには、いささかコストが大き過ぎる。過ぎるのだ。
社会がハイクオリティになった結果、子育てに関する期待と責務が膨れ上がった。この先、さらに膨らむことはあっても、しぼむことはないだろう。一方で、私達の金も時間も増えるわけではない。このインフレが進めば、実質、子育てを達成できるものはいなくなるだろう。
これは、SFじみた私の妄想なのだけど、責務が膨れ上がって達成不可能になった子育ての多くは、いずれ国家に移譲されるのではないかと思う。親は子供を産むだけ。あとは、施設に預けられて、ハイクオリティな子育てを受ける。そして、育った子達はハイクオリティな社会で経済活動を始める。
まるで家畜のようだ。
まったく人間味はないけれど、このまま社会のハイクオリティ化が進んでいったならば、効率化の観点から、そうならざるをえない。
まったく、人間味はないけれど。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?