オリジナルの芸術作品を求めて

林檎(りんご/Apple)🍎

さて、突然ですがこれを描いてくださいと言われたらアナタならどんな風にりんごを描きますか?

先ずは、丸描いて赤色に染めて緑色の葉っぱをちょっと付けてそれからそれから…と考えましたか?

それとも、初めはCとb(小文字)でりんごの型を作ってから影を付けていき、ちょっと歪な形のりんごに仕上げようとしましたか?

丸を描くのは意外と難しい物なのです。

よく絵は慣れだとか、沢山描いていれば自然に図形等はフリーハンドでスラスラと描けると言う言葉を耳にしますが私はそうは思いません。

確かにそれは「一理ある」とは思えます。

ですがそれも技術面でと言う意味です。

一見りんごもその見た目から簡単に描けると思っても人の数ほど、りんごと言う物は色々な形に描かれる物なのです。

りんごは丸いから楽に描けると思われがちですが、似ている物として挙げるならトマトが良いですかね。

トマトとりんご…何が違うのでしょうか?

両者とも「円形」「赤色」「ヘタが付いてる」etc…

見た感じどちらも似ています。

もちろん両者とも断面図描いてみれば分かるだろと仰るかもしれませんが本題はそこじゃありません。

議題は「何をどう描けばりんごとして見られるのか」と言う事です。

確かに美術の教科書や本屋に並んでいる絵の描き方の本に基礎的な対象物の描き方や捉え方は描いてあるかもしれません。

先人からの知恵で絵の描き方は教科書や人から教われば分かるかもしれません。しかし、最後に頼れるのはやはり己のその頭脳だと私は考えているのです。

頭脳が数%しか使われていないからやっても無駄と思う人もいるかも知れませんが、脳は生まれてきた時のおまけでも、ましてや飾りではありません。紛れもなく他の臓器と同等に価値のある一種の心臓(ハート)なのである。

そのハートでりんごを丸く描くのか、それともトゲトゲしくて、こんなりんごなんか存在するわけない!…と言うような自己のオリジナリティのあるりんごを描くかは自由。

私たちには一人一人そのハートがあるから腕を動かせられる。目も口も動かせられる。もちろん、足の指で描いても誰も文句は言わないし、言われる筋合いなどあろうはずがない。寧ろ私なら足の指で絵を描いた人を尊敬する。

ただ、それとは反対に教科書に書かれてある描き方や文面だけの事をそのまま紙に描いても一体何が産まれると言うのだろうかと私は疑問に感じるのです。

三角のりんごを描いたって良いじゃないか。
紫色のりんごであっても良いじゃないか。
はっきり言って虹色のりんごなんて今の時代では在り来たりではないだろうか?

いいや、りんごだけじゃない。
肝心なのは絵を描くときに己の持つ物事の本質や価値観をいかに破り、他者と違うオリジナルの作品を手掛けられるかが重要だとそう私は声を大にして言いたいのです。

AIに描いてもらう事自体は私は否定しない。寧ろ自分の描写力を超えるために必要な物として捉えている。

(私は対象物はこんな形に見えました、見えるんです)とオリジナルの芸術作品を描きあげる者には物の奥底にある真意をちゃんと見れており、言葉も美しいものがあると私は確信している。

例えその事でお前の考えは間違えているとのご意見や誹謗中傷があるのは目に見えているとしても一貫して私は発信し続けるでしょう。

頭脳/ハートを上手く使えている者はどこか瞳が美しく、「自己の独特な世界観」を形や色で表せており、「他人とは何処か掴めない物、オリジナリ性」を持ち合わせる…そんな人が自分の周りには沢山おり、いつもそんな彼らの物の捉え方に驚かされ、私の頭脳は喜び、また自分の表現力の低さに苦しみ、それでもハートと連携させた指を動かし次世代の価値観を持った芸術作品を仕上げたいと日々書き上げている次第であります。

さて、特定の対象物をどんな形や色で描きあげるかはアナタのその頭脳/ハートの使い方次第ー・・・!!