好きの言語化訓練ブートキャンプ『タクティクスオウガ』

好きな作品のどのへんが好きなのか語っていくうちに、「好きの言語化」をできるようになってみたいシリーズ。

今回はゲームから、タクティクスオウガ。
ちょうどつい先日、25周年をやっていたので思いだして。

このゲームの好きなところは、シナリオのドロドロ感。
そして、譲れない信条のぶつかりあい、ですね。

このゲーム、実際にあった民族紛争(ユーゴスラビア紛争)を下敷きに書かれているだけあって、シナリオの迫真度がすごいのですよ。

たとえば、主人公の属するウォルスタ解放戦線(弾圧されている少数民族の部隊)は、ストーリー第一章の終わりで、ウォルスタ人の囚われた収容所をガルガスタン人(7割を占める民族)から解放します。
そして何千人にもおよぶ人々を救出するのはむずかしいため、武装蜂起を促すのです。
それに対する人々の反応はすげないもので、

老婆「あんたたちが何もしなければ、平和な生活が続いたんだよ。解放軍だかなんだか知らないが、ただ、首がすげかわるだけじゃないか。あたしたちには関わりないことだ。あんたたちと同じことを言ってた息子は半年前の戦争で死んだよ…。あたしの息子を返しとくれッ。」

そう。
ふつうのゲームなら、ヒーローたる主人公が説得すれば、大衆のキャラはそれに賛同するものですが、このゲームではしないんですよね。
自由がなく家畜同然の生活だろうと、生きていければそれでいい。疲弊した人々は、ヒーローなど求めてはいないわけです。

そして、それを見越していた軍師の提案がまたすごい。
それは、ガルガスタン人の仕業にみせかけて、彼らを虐殺することによって、ほかの収容所の同胞たちを決起させること。5000の同胞を切り捨てて、より多数の同胞を弾圧から解放しようという提案なわけです。

そしてこれもふつうのゲームなら、主人公はそんな提案、断固として拒否するものですが……このゲームでは受け入れるか拒否するかを、プレイヤー自身が選ばなければなりません。
そこでシナリオは大きく分岐していきルートが分かれていきます。

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こうした決断と選択によって、あらたに敵ができたり味方ができたりしていくんだけど。
その、立場によって人間が敵になったり味方になったりしていくのが、深いなぁと。

このゲームをプレイしていたのは、中学~高校生くらいのころだったんだが、このシナリオのドロドロ感がとても好きで。
勧善懲悪のスカッとするものも好きなんだけど、こういうだれが正義とも悪ともいいきれないなかで、どう振る舞うか? っていうのが、エンタメのなかでも考えさせられるものがあって好きだったんだよね。

あと、このゲーム、戦闘中に、キャラ同士が喧々諤々、おたがいの譲れない信条をぶつけあうところがあって、それも好きだった。
このあたりとか大好き。

「……貴公らの革命を思い出してみよ。
 貴公らが血を流し、命を懸けて守った民はどうだ?
 自分の身を安全な場所におきながら勝手なことばかり言っていたのではないのか?」
「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ……」
「いや、違う。被害者でいるほうが楽なのだ。
 弱者だから不平を言うのではない。
 不満をこぼしたいからこそ弱者の立場に身を置くのだ。
 彼らは望んで『弱者』になるのだよ」
「民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい」
「何を与えるというのだ?」
「支配されるという特権をだっ!」


なんというんだろ。
より還元していうと、キャラとキャラがそれぞれ独立して生きている感、が好きなのかもしれん。

現実社会って、みんな、ある程度、まあまあ……って遠慮しながらおなじ方向を向くことで、まわっているわけじゃないか。
現実はそれでいいんだけど、物語のなかでそれは、ツマラナイんだよね。
それぞれの人生があって、拠ってたつものがあって、己の求めるものへ進むなかで、掠りあったりぶつかりあったりする。
そういうところで立てる摩擦音が、オモシロイなぁと思う感覚がある。

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