教育について
「教育」という言葉が根付いたのはいつからか知らないが(調べればよいのだが)少なくとも、日本人にとっての教育は本来は家庭のモノであったはずだ。農家は農家のノウハウを教わり、大工は大工の技を学んでいく。
では、今のように子供たちを一つのところに集めて「訓練」をする必要に迫られたのは何故だろうか。
日本では欧米列強に追い付け追い越せの時代がやってきた。明治時代、日本が近代国家としての道を選択した時である。
その時から「教育」は「訓練」となった。いわゆる軍事教練である。
皆、同じ時間に集合し、同程度の知識を身に付け、号令一下同じ動きをしなければ「集団としての強さ」は発揮できないからである。そして、義務教育という名のもとに、家庭から教育を取り上げたのである。
翻って、現在の教育は当時と何か変わったのであろうか。内容は確かに変わったと思う。変わり続けても来ただろう。しかし、教育とは「型」である。「型」の中身がいくら変わろうとも、「型」そのものが変わらなければ同じことであり、「訓練」は「訓練」のままである。そこに個人の自主性や違和感への気付き、自ら調べてみる力を伸ばす余地などというものは最初から考えに入っていない。
私は「失われた30年」というものをいわゆる「社会人」として生きてきた。企業内の仕組もまた、教育から連綿と受け継がれてきた「型」であり、それが日本経済の成長をあるときは後押ししてきた。
ただ、これだけ流動的な世間になってくると、「型」ではフィットしてこなくなってきた。そろそろ「教育」から「型」を切り離す時が来たのだろうと思う。いや、選択肢を増やす時期になったのだろうということだ。
特に我が国では、数少ない若年層がこれからの時代を牽引していかなければならない。
日本の最大の課題は「教える側のあらゆる実社会リテラシーが低い」ことだと思う。なぜなら、同級生を見ても、多くの「中途半端に安定を求めた連中」が教職課程を経て、教員になっているからだ。最初は「知識偏重教育」の問題点を聞き、興味本位で行動をしてみた。そこで現役の教職員から聞く話は控えめに言って衝撃的だった。何も知らない。のである。
しかも社会人経験のある教職者は教育委員会が文科省の要求をスルーして増やさず、年間教育プログラムを作成しようかと申し出ても、今度は教職員側が「教員経験のない講師お断り」なのだそうだ。
私は現在、頭が少々混乱している。必要なポジションに必要な人材を外部からスカウトしてくるという、一般企業では普通のことに壁がある。
そしてそれは教育委員会だけではなく、私学でも「教員のプライド」や「立場」を脅かされるのが最大の理由だというのである。
一体、教員とはだれのために存在しているのか。この「空気という絶対的拘束力を持つ妖怪」と戦うことを私は決意した。
数で劣るのならゲリラ戦法しかない。いろんなところで火の手を上げよう。まったく、命がけもいいとこである。しかし、外道は外道。見たからには見なかったことにはできないのである。