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投票先選びは属人的であるべきか

 参院選が近い。先日こんなツイッターが話題になっていたのを目にし、思うことがあったのでちょっと書いてみよう。

 この画像から何を読み取るかは各人に任せる。そこが主題ではないからだ。
 私はこのデータが何かしらの指標として提示されること自体に違和感を覚えてしまうのだ。
(なお、ツイート自体を引用しているが、ツイートした人や反応を示した人達に対してどうこうではなくて、画像のデータのみに言及している。)


 私は、国会の椅子取りゲームの、その椅子に誰が座ろうとそこはあまり重要ではないと考えている。というより、誰が座るかという点に価値をおいて投票することに違和感があるとでも言おうか。ともかく、そういう漠然とした思いがある。(特定の候補者を応援すること自体を悪いとは思っていません。)

例えば
 「女性が働きやすい社会に!」
 という、女性候補者。
 「表現の自由を守るために!」
 という、芸術家候補者。
 「少子化問題に取り組む!」
 という、子だくさん候補者。

 こういった人達がいるかもしれない。大いに結構である。しかし、その政策を実現できるか、あるいは実現するための行動を起こせるかというのは、その候補者でないといけない、ということはない。

 しばしば、子供のいない候補者が少子化問題に取り組めるのか。女性でないと女性が困っていることは分からないのではないか。当事者でもないのにその業界のことが分かるのか。などといった、偏見がある。しかし、その偏見を是正しようとするのではなく、逆手に取って、そういった属性を自身が持っているからこそ立候補した、という人もいるだろう。使える武器は何でも使え、というのは理解できる。
 だがしかし、(候補者自身の議員になりたいという意思があるのは大前提だが)果たしてそれを有権者はどのように評価するべきだろうか。

 本来であれば、候補者が有する属性は所属政党くらいでよく、その中で自分が何をしていきたいかを訴えていけばよいはずだ。この行為に、今までの経歴やら女性であることなどの属性は関係ない。むしろ、自分が体験していないことでも民意に耳を傾け政策に転換していくのが政治家の本質であると考えれば、体験していないことを語ることは何もおかしなことではない。
 逆に、知っていることや体験していることを根拠に政策を掲げるという観点で言えば、育児を十年以上前に終えた女性候補者の発言より、今まさに育児参加している男性候補者の方が現実に即した政策を持ちようものだろう。ようは、人それぞれ政策それぞれなのだ。
 更に言えば、その人でないとその政策を実現化できない、なんてことはないし、本来はあってはならないことだと思う。

 一方で、属人的であるからこそ成し得た事というのは、これまでにたくさんあるのだろう。これを否定するつもりはないが、何事も属人的でなければ成し得ない、と短絡するのは良い傾向ではないと常々感じている。

 諸問題に対して、各候補者が自分の(時に所属政党をも含めた)属性に関わらずに考えて、それぞれの政策を掲げて行くことこそが本来あるべきものだと思うのだ。そして、有権者はそれらを個別に判断して、最も近い意見を持つ人や応援する人に投じれば良い。消去法で選んでもいい。誰にも投じたくないと思えば、白票で構わないとも思う。
 何よりも、候補者の一部の属性だけを見て自分の意見に向き合わないことがあるとすれば、それが一番もったいないと私は感じる。

 この先の未来に、その時の最新データに更新された前掲の指標を見た人々が、たとえその比率がどう変わっていたとしても「ナンセンスだ」と言える社会になることを願う。


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