創作メモ:たのしい
わたくし本業は職業カメラマンと写真講師の仕事をしておりまして、ここ15年くらい、すべての物事を写真の目で見る訓練を続けていたのですが、ここ数ヶ月、よっしゃ小説でも書いてみっかというので、文章を書く視点、思考法というものを身につけるべくチャレンジしています。これが殊の外たのしい。
写真はひたすら実存の裏付けがあるのが前提で、写真があるということは、そこに写された何かしらは私達が肉体を持つこの世界で、少なくとも撮影時点に存在していたということであり、また写真はその証明として扱われることが少なくありません。
なぜなら写真は先述の通り、「あるから写った」「写っているということは、ある」がほとんどの場合セットになっており、これを私が教えている場では「押しゃ写る」と呼び習わしているのですが、文章を書く場合、言葉にした時点で実存との関係性が一度断ち切られて抽象化してしまうので、言葉にする前にその対象が何であるか、どの深度で扱うのかを決定しなければなりません。
つまり文章は、そこに文字列があるからといってその書かれた対象が本当に存在するかの証明になる度合いが写真と比べると小さく、だからこそ自由に思考を羽ばたかせて創作する余地が大きいわけで、そのギャップが面白いなと感じています。
そこに一人の男がいた、と書く場合、筆者は描写しているのが人間であること、単数であること、性別をあえて区別し、その片方であることを認識させるために書くのだ、という作為が働いており、写真のように「押したら写っちゃった」という感覚とは正反対といって良いくらい違います。
であれば、文章を書く時、自分がその対象についてどれだけ理解しているかが一言一句問われ続けるわけで、たとえば中年のおっさんが小説を書くのなら暴力を題材にしたものも書きたいと思っているのですが、では暴力とは一体なんだ、ただ暴漢が他の個人を殴ればそれで良いのか、社会は暴力をどういうものと定義しているのか、などなど、疑問がどんどん湧いてきます。
考えてみれば刑法に触れることをして裁判に負けると刑務所に収監されたりしますが、刑務所に収監すること(=行動範囲が限定されること)が刑罰として人権とのバランスにおいて設定されているのなら、ハンニバル・レクター教授のような身体拘束は刑罰として行き過ぎなのかどうなのか、社会との隔絶が刑罰なのか懲役の労働部分は刑罰なのかどうか、軽すぎるのか重すぎるのかみたいなことも考えざるを得ません。
文章、特に小説を書くということは、それら一つ一つのことに自分の解釈を持ち、そこをベースにしていかないとならんのだなあ、そういう思考のトレーニングなのだなというのを知って、大変楽しく取り組んでいます。