ある歌の鑑賞文009(あきやまさん)
芍薬はすべてが過剰な花だ。
茎に対して花が大きすぎるし、生き急ぎすぎだし、水飲みすぎだし、香りも百合とは違うアクの強さでグイグイ来る。何より名前が強い。しゃくやく。自分の名前の中で韻を踏んじゃってる。やり過ぎである。そして私はそんな芍薬が大好きだ。筆名に貰うくらいに。
昨日、うたの日で「芍薬」の題詠があるというのでいそいそと見に行ったら良い歌好きな歌にたくさん出会えましたね~匂い立つような歌が多かった。投票に参加させてもらったのだが、詠草の中で「芍薬」以外の花でも成り立つと思った歌は選から外した。逆に「芍薬」の題詠です、と言われなければ意味が通じなくなる歌(花の名を詠み込まないのは全然大丈夫だが、芍薬独自の特徴を丁寧に詠んでいないとなんの花を指しているのか読者には伝わらない)も選からは漏れる。一首の情報が多すぎる歌も漏れる。
首席だったのはあきやまさんの一首。(私が特選を入れた歌は首席にならないというのはなんでか知らないけどよくあるパターン。あきやまさんには私も並選を入れています)
崩れゆく花弁すべてを匙にして空の涙をすくう芍薬/あきやま
選評が二千字くらいになりそうなのでドン引きされないように我慢したけど、やっぱり色々書きたいと思ってこのnoteをしたためる。
もう一度言うけれど、芍薬はいろいろな点で過剰な花だ。それを短歌というものにおさめるときはいつも以上に引き算をしたくなる。
この歌でまず目を惹くのは花弁を匙に見立てたことだろう。これは芍薬の花を、それが満開になってしまった頃をほんとうに見たことが無ければ思いつかない比喩じゃないだろうか。今私は目の前に満開の芍薬を置いてこの文を買いているのだが、マジで匙。ゆるく反ったカレースプーンサイズの花びらがもさもさしている。目の前のほんとうが歌の中にちゃんとある。これって結構うれしいなと思う。
さて、匙はモノなので使う人がいなければ何も行動を起こすことができない。この歌の中には人の気配がないのでおそらく無人の屋外である。(屋内で咲いていたら下句が成り立たない)
この花弁=匙の比喩だけで作者のオリジナリティが輝きまくっているし読者を驚かせることに成功しているので、あとはさらっと流して詠んではい一丁できあがり、くらいの薄さが個人的には好きだと思った。私がこの歌に特選を入れられなかった理由は「すくう」という動詞にノリきれなかったから。「育つ」とか「咲く」とか「崩れる」もその花の遺伝子がそうなっているから勝手にそうなるだけであって、自分の意志で何かをするわけではない花弁に「すくう」という能動的な動詞を背負わせるのは重い。
なのでここに動詞を置くならば「受ける」のほうが無理が無くて良いと思った。昨日あきやまさんから伺ったところによるとこのすくうには「掬う」だけでなく「救う」の意味も込めたとのこと。あえてかなに開くことで歌に幅を持たせ、読者に読みを委ねたのだろう。一首のなかで「すべて」「さじ」「そら」「すくう」「しゃくやく」と語頭にさ行を持ってくる音遊びをしたかったというのもあると思う。さ行をばらまくことで湿り気の多い景に除湿効果が加わるから。
繰り返しになるが、「匙」の比喩があまりにも良いのであとは引き算に引き算を重ねていくくらいがちょうど良さげ。雨を「空の涙」と喩え、さらに「掬う」と「救う」のダブルミーニングまで持たせるとなるとtoo romanticではないだろうか。ただでさえ存在が過剰な芍薬にそこまで被せると胸焼けしてしまう読者が一定数いそうだ。
芍薬の一番きれいな瞬間っていつだろう?つぼみが開き始めた頃?触れたらもう崩れるなってところまで咲き切った頃?それぞれの好みがあるだろうが、散ったあとの花弁ひとつひとつ、つまりは死骸なのだが、それさえも水気と張りがあって美しさをまだ手放していないところがこの花の怖さだと思う。同じ派手系の花でもクチナシとか椿とかはだんだんその身を退色させつつ死んでいくじゃないですか。あんな風に段階を経て朽ちていくほうが見ている側としては安心できるかもしれない。芍薬は本当に過剰な花だ。
あきやまさんにはこの鑑賞文を書く許可をいただくにあたり、すこしお話をさせていただきました。良い歌を読ませてくださり、ありがとうございます。芍薬は旬が短いのであと半月もすれば花屋さんから姿を消しそうです。これを読んだみなさんがお花に興味を持って「芍薬、買ってみるか~」と思ってくださればとてもハッピーです。
おしまいに、私もうたの日に出詠しちゃおうかな~と思いつつやっぱり恥ずかしくてやめた即詠一首をここに残しておきます。
芍薬のあまやかな自死見ておりぬ何も決まらぬ家族会議に/芍薬