ある歌の鑑賞文001(長谷川伝さん)
うたの日という歌会サイトに参加している。
毎月十日は自由詠(じゅうをじゆうにかけている)である。私は苦手意識が強く、今月もやはり成績としてはあまり良くなかったけれど楽しかった。
昨日、235首集まった歌のうち、私がダントツで好きだったのがこちら。あまりにも感動したのでご本人の許可を得た上で鑑賞文を書くことにする。
食うためにすずらんを買う。店員がまた来てくれというので生ける。/長谷川伝
時間がなくて長い評は書けなかったのだが、私が書いたのは以下のとおり。
「すずらんには毒がある、かなり強い毒で死に至ることもある。それを食うために買うということは自死願望があるのでしょうか。ところが店員さんの一言によってがらりと物語の道が逸れる。選択肢Aの食うではなくBの生ける、へ。生ける=主体が死から生へと舵取りを変えたさまを想像させます。そのすずらんが枯れる頃、主体はどんな選択肢をとるのか非常に気になりました。」
初見からしてこの歌の主体は男性だろうという予感がした。平日の昼間にぷらっと花屋に行けてしまうような、いってみればうだつのあがらない男性。きっと想い人もいないだろう。
そんな人がいきなりすずらんください、と来たら店員はどう思うだろうか?
店員はもちろん毒のことを知っている。私が売った可憐なすずらんのせいでこの人が死んだら夢見が悪い。すずらんは悪くないし私も悪者になりたくない。でもビジネスだ。
そこですずらんに添える「また来てください」の言葉。これによって彼の死にすこしの猶予をもたせるのだ。
主体はおそらくちょっとびっくりした顔をしてから「あ、はい」と小さく笑って受け取っただろう。
あるいは。
主体は店員さんに「すずらん」を求めれば気づいてもらえると踏んでいたのかもしれない。わからなくなってくる。五分五分くらいの確率で助けてもらえることを見越していたのかもしれない。家には花瓶にすべくきれいに洗われた空き瓶なんかも用意してあるかもしれない。
なんというわかりにくいSOS。
自分らしさに自信がもてず誰かに決めてもらうことで生きてきた、そんな儚さを匂わせつつも無意識(あるいは意識的)に他者を自分の日常に介在させて責任をシェアしてしまおうというずる賢さもある。このひとは他者の言葉を、介在を拒まない、案外オープンなひとなのだ。
ところでこの短歌は動詞が多く、理路整然とした短文調のかたちをしている。最後も終止形で「生ける。」と言い切っている。句点までつけて。
そこまで「はい、これで終わりですよ」と言われてもなお納得できないのだ。その先を見たいと思うのだ。すずらんが枯れたらまた新しいすずらんを買いにいくのか。この人は死ぬという選択肢AのほかにいまB(生ける=生きる)を持った。そのほかの道も持ちうるのか。
今まで好んできた短歌は起承転結が美しくまとまっているものがほとんどだった。読者の目をだんだんズームアップさせていって結句で整った静止画を見せるような感じの歌。私自身が詠むのもだいたいそのパターンだ。(この嗜好自体はたぶん変わらないと思う。)
そういうものに慣れていた脳にこの長谷川さんの「言っていることはわかるけど、終わりが終わりじゃない」歌はとても新鮮だった。余韻がある歌とはこんなに感動するのか、と。「言っていることがはなからわからない」歌だったらこれほど引っかかることもなかっただろう。
長谷川伝さん、鑑賞文執筆にあたり諸々ご快諾くださりましてありがとうございました。これからもうたの日でご一緒できるのを楽しみにしています。