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京都の禅塾で、プチ修行の巻
あけましておめでとうございます。
チェンマイの図書館でもくもく綴っています、エイミーです。
昨年、2023年はフリーランスとして新たなお仕事をはじめた傍ら、ヤドカリのように定住地を持たない「旅暮らし」のライフスタイルを実践。そうした中で、一生涯の友となるであろう素敵な人たちとの出会いでドキドキワクワクの絶えない、心満ちた年となりました。
そうしたたくさんの思い出たちの中でも、9月に京都の「長岡禅塾」にて2週間の滞在をした経験は一生忘れられない経験に。短い時間でしたが、北野大雲老師、雲水、塾生の皆さんからたくさんの学びを得られた時間になりました。
本記事では、そもそもなぜ禅に関心をもち、禅塾に滞在してきたのか備忘録として綴っていきます。
日本哲学としての「禅」との出会い
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新しいアパートに引っ越したうれしさは平均3カ月で色褪せ、給料が上がった喜びも半年で消失、好きな相手と恋仲になった幸せも6カ月で薄らぎ、およそ3年でベースラインに戻ります。
大金を手にしても、住む場所を変えても、愛する人と結ばれても、その喜びは常にうたかたです。
欲望うずまく東京での学生時代、就職活動のまっただ中。
この世界でどう生きていきたいのかなぁ、とぼーっと考えていたわたし。
その答えを求めるように、一心不乱に本を濫読しては、好きなアニメや映画のヒロインたちを考察したり、自分のまわりの友人知人と話す日々を送っていました。
そんな中で気づいてきた、わたしの理想な生きかた。
足るを知っていて、
隣の芝を青くみず、
好奇心と仲間を大切にしながら、
「今このとき」をご機嫌に過ごせる
嫉妬や怒り、憎しみ、悲しみといった感情に振りまわされず、心の平静を大切にしていて、自分が本当は何をしたいのか、自分の本質は何なのか、自分の人生に意味をもたせるために何をすべきか、真摯に向き合える。波のように押し寄せる感情や、他者からの評価や意見の奴隷になるのではなく、自分をありのまま見つめ、自分の意志で人生の舵をとっているような。
そうした生き方が正解と言いたいわけではなく、こうした生き方に、わたしは心底憧れを抱いているとふと気づいたのです。
白状してしまうと、わたしはまだまだ感情に流されやすい人間で、負の感情が心を包み込むこともしばしばあります。なので、客観的に自分を見つめ、感情に振りまわされずに、自己の本質を見つめられる方法論としてなにがあるのかなぁ、と哲学の本を開く毎日が学生時代から続いていました。
そんなときにまず出会ったのが、「ストア哲学」と「禅」。
ストア哲学はギリシャの哲学者ゼノンによって創始された哲学の一派。ストイックの語源でもあり、自己改善、鍛錬を伴う「生き方」を重要視する哲学です。まさに上記で述べていた、「感情や物質に依存しない」強靭な精神力を重視する思想はとても新鮮で、今でもわたしの人生訓に深く影響を与えてくれている哲学です。
そして、ひょんな「禅」との出会いは、空手の稽古のときでした。空手道では、稽古の前に師範と下記のような道場訓を唱えます。その道場訓が、まさにわたしの人生訓をインスパイアしているストア哲学の思想に近しいものがあるよな、とふと気づきました。
いつもそこにいた、禅の思想。
空手などの武道、茶道、俳句、美術-あらゆる日本文化に浸透する「禅」の思想が、ストア哲学と同様、わたしの人生訓にまで深く根を張りそうな予感を覚えたのでした。
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思い返せば、今流行りの日本のアニメ「鬼滅の刃」、「バガボンド」などを例にとっても、ストア哲学や禅の修行者が追求する「明鏡止水/邪念のない、落ち着いた静かな心境」や「精神的な安定や成長」をよく描写している作品といえます。
そうした気づきを得て、まずはじめに読んだのが、禅の思想を海外に広く知らしめた鈴木大拙氏の「禅と日本文化 (岩波新書)」。人生を通して慣れ親しんできた、あらゆる日本文化には禅の教えに通じるものがあると再認識し、その奥深さに感銘を受けたのでした。
自分の存在について、人生について、もやもやと霧が覆いつつも、社会に出て約3年後に退社。現在は、荷物を最小限に断捨離し、帰る家も構えずに旅暮らしをしているわたし。芭蕉のいう「日々旅にして、旅をすみかとす」。そんな生活をしていると、自然と新しい環境、文化、言語、人々に出会います。とても嬉しい、幸せなこと。
そしてその分、「外」に好奇心、意識がいってしまい、トレードオフ的に「内」の声に耳を傾けられない日々が続いていたのも事実。自己の内省、対話に気を配れない日々がつづいていました。
タイのチェンマイに拠点を移して、数ヶ月したそんなとき。
禅についてネットで調べていたら、偶然、京都の長岡京市に「禅塾」があり、塾生を募集しているとのこと。ノマド生活をしながら、心にもやもやを抱えていたわたしは、日本帰国のチケットを数日後には購入していたのでした。笑
長岡禅塾でのショートステイ
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「禅」を座学のみならず、実践することで会得したいという気持ちから、長岡禅塾の門を叩いたわたし。募集要件に「学生」とあるにも関わらず、話を真摯に聞いてくださり、特別にショートステイの許可いただいたのでした。。心の底から感謝。
そんなこんなで長岡禅塾での生活がスタートしたのですが、お寺での1日ははやい。
朝4時に起床(開静)。まだ藍色の空に星が瞬き静寂に包まれているなか、袴に着替えて支度をします。朝課をこなし、ぞくぞくと禅堂に修行僧、雲水さんが集うときも、まだ暗闇のなか。闇と沈黙の中、みな自分の所定の座蒲(ざふ)へとゆっくり、歩を進めます。
座蒲についたら、雲水さんの合図とともにお経を唱えます。宗派ごとに重要視するお経は異なっており、禅宗でも臨済宗と曹洞宗では読み方や読む際の作法も異なっているそう。
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読経が終わり、りんの澄んだ音が禅堂に響き渡る。その音を合図に、お線香と木々のざわめきの中、自分のペースで姿勢、呼吸、心を整え、坐禅に入ります。
禅において坐禅は非常に重要な存在とされていますが、正直、2週間の滞在を経てもわたしはスタート地点にすら正直立てていなかったです。毎朝坐禅をおよそ1時間ほど行うのですが、極度の足のしびれで、心は邪念、姿勢は百姓のお婆、もしくはロダンの「考える人」のようでした..
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閑話休題。
蝋燭の火が消えたら、雲水の合図でみな禅堂をあとにし、朝食の支度にうつります。寺によって異なりますが、長岡禅寺での食事は質素倹約、1日で4人分の朝食と夕食を1000円で収めます。
現代人からみれば簡素な食事。
でも質素とは程遠くて、みんなが創意工夫した料理はとても美味しかったです。お世話になった雲水さん、他の修行僧のみなさんはとても料理上手で、食事のたびに毎回唸っていました。
みんなが同じ釜で炊いたごはんを、食べれること、生をもらって生きているということを改めて感謝する時間に。最後の米の粒、最後の一滴まで食べ飲み干す。
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朝食を食べ終わったら、お寺の掃除時間。修行の一環として、雲水さんと一緒に掃除をします。
一休さんの気分で庭園に落ちた枯葉をほうきでささっと取り払ったり、雑草を抜いたり、庭木などの枝の剪定(せんてい)などなど。砂を波紋のように枯山水をかいたりも。日によって掃除の場所は異なり、窓の掃除や床掃除、森の枯葉ひろいだったりします。
「無駄なもの、悩みをそぎ落とす」哲学は、自分の内側のみならず外側(環境)から始めるものなのだなと、改めて実感する時間に。座禅のみならず、掃除すらも、「いまこの時」に集中する貴重な修行の一環なのだと気づきました。
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ちなみにとても興味深かったのは、禅寺での参禅の最中は基本的に会話は行わず、すべて音を発し合図することで、物事の「はじまり」や「おわり」を伝えるていたこと。
「火の用心」の夜回りなどで拍子木を叩いてまわる習慣が今でもありますが、禅寺でも木や鐘を、ある決まったリズムで叩いて「朝食の用意ができたよ」、「掃除をはじめるよ/おわったよ」、「参禅(坐禅)をするよ」といった合図を広大な敷地内にいるすべての人に、リアルタイムで伝える。非常に合理的。すべてがシンプルに美しくて、奥深い。
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禅寺での坐禅と作務を経て、長い間無意識に身に染みていた我欲、自分の小さい欲求が満たされなかったときに湧き立つ感情の波、凝り固まった世界解釈が少しずつ溶け落ち、心が軽くなる感覚をおぼえた2週間となりました。
執着や思い込みを手放し、持ち物も減らし、心と体の不要な荷物を断捨離することは、わびさびの精神であると共に禅の教えでもあります。
世界は自分のコントロールできない要素で溢れていますが、唯一変えられるものは「自分」。2024年も自己を知り、足るを知ることに努めてご機嫌に人生を謳歌していきたい今日この頃。
P.S 禅、日本文化について海外に発信するプラットフォームを現在制作中。2024年、たくさんの学びと実践が実りますように。
長岡禅塾のSNS
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