■【より道‐38】語られない日中戦争_蒙彊と張家口①
そもそも、自分たちは「第二次世界大戦」や「太平洋戦争」という戦争を学んできた。1941年12月8日に「真珠湾攻撃」をしかけて「ミッドウェー海戦」の敗北や「レイテ島の戦い」「インパール作戦」に「東京大空襲」「硫黄島の戦い」「沖縄戦」そして、広島と長崎に原爆を落とされた。
正直、学ぼうと思って学んだことは一度もない。「火垂るの墓」や「男たちの大和」「永遠のゼロ」「硫黄島の手紙」まあ渋いところでいうと「トラトラトラ」の映画は何も考えず自然に手をとって観ていた。
自分が高校生になるくらいまでは、毎年、終戦記念日あたりに戦時中の特別ドラマが放映されていたし現代でもNHKの朝ドラでは、ちょくちょく戦時中の話になるので、そういう断片的な情報をあつめて、自分なりの戦争観になっている。
でも今回、学んでいるのは、太平洋戦争も含めた近代史だった。1853年 (嘉永六年)にペリー来航から1945年の終戦までの「100年戦争」について。とくに満州事変、上海事変、日中戦争(支那事変)、ノモンハン戦争(事件)についてはほとんど学んでこなかった。とても不思議だしこの時期の事を学ばなければ、東条英機が連合国との戦争を「大東亜戦争」と称した意味も理解できない。
なかでも、お祖父ちゃんが働いていた「蒙古聯合自治政府」については、ほとんど記録が残っていない。哈爾濱から張家口に移り、お祖母ちゃんは26歳の若さで亡くなっている。ファミリーヒストリーを語るには、この頃のことについてちゃんと知っておきたい。
【一夕会】
日本陸軍内では、軍の人事や蒙満地方の今後の方針について若手将校が話し合う会合「一夕会」がもうけられていました。
会員は有名な人でいうと、張作霖爆殺事件を実行した、河本大作や、統制派の中心人物で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と呼ばれた永田鉄山。「皇道派」の中心人物・小畑敏四郎。満州事変を謀略した板垣征四郎。太平洋戦争を導いた東条英機。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文。「世界最終戦論」を発表した石原莞爾。日中戦争発端の「盧溝橋事件」で独断命令を下し、その後インパール作戦を指揮した牟田口廉也、中国共産党から国民政府軍や台湾を守った根本博など、日本の命運を導いた人たちがあつまり、蒙満問題について話し合いをしていたそうです。
しかし、この「一夕会」のメンバー内で「皇道派」と「統制派」にわかれて対立がおきます。「皇道派」は、天皇の下で国家改造を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向する。「統制派」は、軍中央の一元統制、すなわち日本国民全員が一致団結して国家改造を図る計画。「対支一撃論」を推し進めていました。
徐々に影響力を強める「統制派」に対して「皇道派」は二・二六事件を起こしてしまいチカラを失ってしまいます。すると陸軍中央部は「統制派」が仕切るようになり、蒋介石率いる国民政府軍に対して「強力な一撃を加えよう」という「支那一撃論」が軍部内で、いや日本国民にも浸透していきました。また、南京に同じ思想をもつ汪兆銘政権、日本の傀儡政権をつくり「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」を唱えるようになったのです。
【日中戦争に至るまで】
日中戦争が起こるまでの経緯を、もういちど簡単に振り返ってみようと思います。1905年(明治三十八年)日露戦争に勝利した日本は、南満州鉄道の権益を獲得し主要駅のある街を事実上、日本の領土として開発をしました。
1911年(明治四十四年)辛亥革命が起こり、大清帝国が滅亡し中華民国が建国されますが、軍閥の覇権争いが発生します。軍閥は、おおきくわけて孫文の広東軍、蒋介石の国民政府軍、毛沢東の共産党軍、張作霖の東北軍が影響力をもつようになりました。
1928年(昭和三年)遼東半島から北東にある哈爾濱あたりまでの東北地方を制していたのは、軍閥・張作霖でした。張作霖は関東軍と蜜月関係でしたが、やがて、いうことをきかなくなってきます。そこで「一夕会」に属していた河本大作が首謀し張作霖を爆殺します。「張作霖爆殺事件」です。張作霖亡き後は、息子の張学良が東北軍を率いることになります。
今度は、1931年(昭和六年)に板垣征四郎と石原莞爾が「柳条湖事件」を起こします。方法は、南満州鉄道の線路を自作自演で爆破し「張学良軍の犯行」として、東北軍を攻撃する理由を無理やりつくったのです。「満州事変」の勃発です。この、柳条湖事件の場所は、「奉天」から7キロほどの場所ということなので、現代でいうと、北朝鮮の国境から300キロほど北に離れた場所で起きた事件になります。
当時、張学良率いる東北軍は45万人。一方関東軍は1万人だったため、板垣征四郎と石原莞爾は朝鮮軍に増援を頼みます。朝鮮軍の司令官・林銑十郎長官は、それに応じて奉勅命令(天皇の命令)のないまま独断越境をし関東軍に援軍をおくりました。
それをみた、日本政府は追加予算を承認し事実上、満州事変を認めました。日本軍は、奉天を攻略すると次々と、中国東北地方の主要都市を攻略していきます。途中、欧米の目をそむくために上海事変を起こしますが、1932年(昭和七年)には満州国建国を宣言させることに成功します。
1933年(昭和八年)には、中国熱河省、河北省に軍事侵略をはじめ、ちょうど、黄海湾のまん中あたりが満州国と中国の国境になりました。中国側は北京と天津あたりが国境になります。その後、塘沽協定により中国軍と日本軍は停戦協定を結び満州事変が終息しました。
そして、1937年(昭和十二年)に日中戦争が起きます。お祖父ちゃんが働いていた蒙古聯合自治政府ができるのは、1939年(昭和十四年)ですので日中戦争の戦略的地域として領土化したと考えてよさそうです。場所は、ちょうど中華民国と満州国の国境地帯、熱河省の北に位置していますので、日中戦争の緩衝地帯として、モンゴル政府を巻き込んだ傀儡政権をつくったのでしょう。
モンゴルは、ソ連に侵略され迫害を受けていたわけですから、たしかに、欧米列強からのアジア人の解放ともみえますが、徐々に中国領土を侵食しているので日本の侵略戦争ともいえるわけです。ここにも「大アジア主義」の理想論と「欧米列強に肩を並べる軍拡主義」である現実論の乖離がみえてきます。