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【138日目】嫡子相続と分家相続

ご隠居からのメール:【嫡子相続と分家相続】

戦国時代から江戸時代にかけて山林・田地田畑の所有権がどうなっていたかはもっと確かなことを調べる必要があるが、與左衞門さんが50町歩持ち、おそらく15町歩位を信谷氏に分けたのではないかと思う。

また、嫡子相続と分家相続についても考える必要がある。江戸時代は基本的に嫡子相続だった。次男、三男は婿入りするか、実家の穀潰しになるか、流浪の民になるしかなかった。

ふゆさんのように分家を認めて貰えるには、実家にかなりのゆとりがあったにちがいない。逆に考えて、江戸時代は他に分家の実例はなかったのだろうか。

子供は何人生まれるかわからない。祖父母の勝治郎・ツネ夫婦のように8人生まれ、それぞれの子に婚姻をさせるというのは江戸時代にはあり得ないことだったのではないか。

天明、寛政、文化、文政、天保、嘉永などの年号のついた墓が実在しない理由を考えてみよう。単に貧しかったからだけだろうか。幕府や新見藩からのきびしい節約命令があったからではないだろうか。

武装蜂起が出来ない以上、代官や庄屋との交渉力が必要になる。国人(国衆)・地侍というのは、地元の有力者で、いわば請負人のような存在だったのではないかと思う。それとも企業でいう中間管理職のようなものか。

信連、元信の時代までさかのぼると、婚姻は一夫多妻制度ではないか。つまり、信連、元信にはあちこちに妻子があったのではないか。



返信:【Re_嫡子相続と分家相続】

1716年(享保元年)に戒名をつけるくらい格の高い家で裕福だったと考えると、百姓だけでは、そのようになるには難しいよね。商売をしていたとは考えにくいし、土地を切売りしていたのか、お父さんのいう通りその地方の郷士として、藩との交渉時に守役を請負っていたのか。

当時の武士たちもたいした仕事がなかっただろうから、新見藩からお目付け役として誰か足を運んでいてもおかしくはないが、藩や陣屋と連携して高瀬村の治安を守っていたかもしれない。

百姓とは別に一定の役割、権力があれば豊かな生活を送れただろう。そして、その権力を剥奪されたのであれば、與左衛門さんまで墓がなくても、おかしくないとも思ったが、1716年頃のご先祖さまと與左衛門さんは、せいぜい3代差くらい。與左衛門さんにとっての祖父や曾祖父がいちばん古い墓にとなってるのかね。

信連は、「強者の種を断じてはならない」と頼朝に言われて能登の守護となっているから、全国に奥さんと子供がいて当然だと思う。鎌倉時代の御家人は、それこそ、大殿様だろう。全国各地に信連の伝説が語り継がれているのは、それだけ、子供がいたと考えていい。元信も何人か子供がいたと思うし正室も側妻もいただろうしね。

ただ、関ケ原の戦いで萩転封が決まったとき、高瀬に帰農することを選んだ子孫がいた。それが、長男だか次男だかわからないし、正室の子か、側妻の子かもわからないが、現代に続く長谷部の土地に帰農したということ。すなわち、「太閤検地」で長谷部の土地と認められたというわけだ。

秀吉のおかげだね。


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