【201日目】隠れ里の高瀬
ご隠居からのメール:【隠れ里の高瀬】
「過去帳」は、返却する必要があれば、いつでも返却するが、それまでは保管しておくから、写真撮影は急がなくてもいいよ。
次に、長牛之助が新見氏の協力を得て、高瀬大原の土地を手に入れたということも十分に考えられる。
菅生西谷村の長氏は大庄屋としておおっぴらに活動するために西谷氏と改称するが、隠れ里の高瀬なら隠し姓で長谷部氏を維持しておき、その代わり、庄屋のような目立つ地位は求めない、肝心なことは一族の存続だという深慮遠謀だったかもしれない。
長谷部絢光が「当日野郡人久不住事」を書いたのが1763年(宝暦十三年)という事実と関連させて考えると、わが家でいちばん古い墓碑銘の戒名は1735年(享保十九年寅)の「金風妙露信女」。
年号が近いことが注目に値する。それに、「金風妙露」とは意味深長な珍しい戒名だ。もしかしたら、金持氏の持参金で、わが家に繁栄をもたらせた伯耆系の女性かもしれない。
>>面白いのは、「衛門」を通名として使用しているということ。右か左か
>>はおいておいて、ご先祖様が朝廷で働いていたことを誇りに思い残して
>>いたのだろう。「菊」「輿」という名も通名と考えてよさそうだ。しか
>>し、信連の「信」や「連」の字を使わないところに、尼子の落人だと
>>いうことを感じる。
たしかにそれも面白い見方だ。與左衞門さんがふゆさんに分家を建てて、信谷氏を名乗らせたのも分家戦略に基づく深謀遠慮か?
返信:【Re_隠れ里の高瀬】
1600年(慶長五年)に関ヶ原の戦いで勝利した東軍の大将徳川家康は、1603年(慶長八年)に征夷大将軍に任命され、徳川幕府を開く。1615年(元和元年)大阪夏の陣で豊臣氏は滅亡すると、翌年の1616年(元和二年)には家康も亡くなっている。
長牛之助が秀吉の感状を理由に菅生村西谷の地をを主張したのが、1626年(寛永三年)だから、三代将軍徳川家光の時代。「新見太平記」では、牛之助の父である、長野又左衛門信治が新見玄蕃丞の被官として菅生の地をあてがわれたとあるね。このあたりで、一世一代の大勝負があったのは間違いない。
「陰徳太平記」の出版が1717年(正徳四年)。金風妙露信女が亡くなったのが、1735年(享保十九年)。長谷部絢光氏が「当日野郡人久不住事」を書いたのが、1763年(宝暦十三年)。平和な時代になって戦国時代を振り返ることができるようになったのだろう。
すると、「当日野郡人久不住事」に記載されている、雅楽相模守(元信五代の孫)というのは、戒名、金風妙露信女の旦那さん、もしくは息子さんの帰心道入禅定門のことを指しているのだろうか。
いや、「長門守神罰を受けて滅亡することに」とあるから、萩に転封となった、毛利氏についていった長谷部氏一族のことかもしれない。
金風妙露信女の戒名は、凄いね。確かに。金風を調べると、「秋風」をさしている可能性もありそうだ。とにかく、ファミリーヒストリーのルーツがしることができてよかったよ。
昨日、妻と息子の三人で妻方の墓参りに行ったら、息子が「自分が死んだらどこの墓に入るの?」と言っていた。とりあえず、「浅草寺に長谷部家先祖代々の位牌があるよ」と伝えといた。
いつかは、浦安の「おもいで」や、高瀬の墓。上下町にある善昌寺のことも伝えなければいけないな。
<<<次回の話【より道‐67】戦乱の世に至るまでの日本史_「観応の擾乱」兄弟ケンカの末路
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?