【137日目】東寺百合文書
ご隠居からのメール:【 東寺百合文書】
随筆『尼子の落人』には東寺百合文書という中世の備中についての一級史料が紹介されている。「備中国名主百姓等連署起請文」(寛正二年八月弍二日))には名主・百姓四十一人の名前が載っており、その中に秋末の名がある。
たしかに、『新見庄ーー生きている中世』の地図を見ると、わが家のあった場所は秋末という名の所有地だ。ところが、右隣の八幡神社の近く、現在の松田氏の家のあるところは重久という名の所有地だ。しかも、奇妙なことに、秋末と重久の土地は隣同士だが、所有者は地頭方(新見氏)と領家方(東寺)に分断支配されていたのだ。
その後、移住した長谷部氏は領家方の秋末を継承し、松田氏は地頭方(新見氏)の重久を継承したことになる。
もともと古代の備中は、公地公民といって、それこそ雄略天皇の時代から天皇のものだった。長谷部氏は雄略天皇から姓を賜っただけで、土地は賜っていない。平安時代になると、荘園が発達し、備中の土地はほとんど東寺の所有地になった。年貢は代官の新見氏や多治部氏を通じて東寺に納められた。そのうち新見氏が中間搾取したり猫ばばしたりして、領家方(東寺)に納められる年貢が減少して、荘園制度は崩壊する。
長谷部氏が土地の所有権をどのようにして主張してきたのかは資料がないからわからないが、交渉相手は地頭、中世の新見氏、江戸時代は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、関氏らの代官だろう。配分比率は四公六民だったのが五公五民になったと言われている。
墓の年号、戒名に関しては、徳川吉宗による「享保の改革」時代のものはあったが、その後、松平定信の「寛政の改革」や水野忠邦の「天保の改革」の時代には碑銘のある墓はない。もちろん、「天明の大飢饉」があった頃の碑銘のある墓もない。当然、死者はいたと推察されるが、年号、戒名を記載する余裕がないか、緊縮政策を打ち出す幕府をはばかって遠慮したのだろう。
江戸時代、人口はほとんど増えていない。飢饉、水害、疫病などが流行し、庶民の暮らしはきびしかった。その中にあって、與左衞門さんは代官や村人との交渉をうまくやり、実力をたくわえたのではないだろうか。新墓地を整備して、俗名を墓石に記載するようになったのは與左衞門さんからだ。
「尼子の落人」は、隣人の松田氏の方が直系と考えるほうが正しい。もしかすると、信谷善右衛門さんも「尼子の落人」だったのかもしれない。
>年貢を納めるにも、一度、備中高梁潘を通って、新見藩に入り直さなけばならない。
ーーこれはいろいろな道があるので、備中高梁藩領を通る必要はない。たとえば、千屋村は天領だったから、千屋村を通って新見藩に行けばよい。
>三室や油野の檀家と高瀬は別々にあったのだろうか。
ーー寺の名前は忘れたが、三室や油野にも寺はあったはずだ。宗派も違う。幕藩時代もそれより昔の中世も備中は分断支配されていたのだ。分断支配されながらなんとか生き延びてきたのが備中人だ。
返信:【Re_東寺百合文書】
1460年には、秋末と重久が所有者となっているのに、見渡す限り 長谷部の土地となるのは、なぜなんだろう。武士は領地の取り合いに命をかけるわけだから、恩賞としてあの土地をもらったタイミングがあるはず。
1185年(文治元年)に長谷部信連が源頼朝にもらったのであれば、秋末名と重久名の名主は、そこで代々百姓をしてきた人物、長谷部信連は恩賞として名目だけ与えられたのかな。
1467年(応仁元年)からはじまる「応仁の乱」から関ヶ原の1600年(慶長五年)までの133年のあいだに秋末名と重久名を追い出したのは間違いないだろう。追い出したあとの年貢は尼子氏もしくは、毛利氏に納めていたことになる。では、どうやって追い出したのだろう。
そもそも、帰農というのは簡単にできるものでもないだろう。長谷部元信のように国人として土地持ちの武士ならできると思うが、、しかも、尼子氏の落人である松田氏が、田畑を手に入れるには生半可なことではないと思う。
1578年(天正六年)上月城の戦いに敗れ、毛利氏の支配下にある高瀬村で田畑を耕し年貢を納めなければならないのだから。または、半農半士として戦のときには、出稼ぎもしてただろうから、身分を隠すには信頼のおける城主がいなければ生きていけない。
長谷部元信は、国人(国衆)だったわけだから上下から高瀬までの一帯を領地として持っていたのだろうか。関ヶ原後の毛利氏転封のときに上下ではなく、高瀬を選んだ理由があるはずだ。その後、郷士として名字帯刀を許されたのだろうか。