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■【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗
平安時代末期に長谷部信連が伯耆国(鳥取)に流された場所、日野郡下榎から大倉山(大蔵山)を越えた隣村にご隠居の故郷、高瀬村があります。
伯耆ふくめ山陰地方は、鎌倉幕府が開かれたときから山名氏が守護職を任されていたようなので、血縁関係のある我が長谷部一族も山名氏に従属していた可能性が高いです。
しかし、不思議なことに現代の自分たちには「尼子の落人」という、家訓のような言い伝えが残っていまして、この辺りの関連性がわかりません。いったいどのようなことが起きたのでしょう。
そんな疑問をもちながら、今回は、山名氏の歴史からファミリーヒストリーに迫ってみようと思います。
■山名氏の繁栄と衰退
後醍醐天皇の政策に不満を持ち足利尊氏に従属した山名時氏は、室町幕府が開かれると山陰地方の守護職を任されるようになりました。そして自らの所領を子供たちに譲りました。
・長男には、丹後(京都北部)・伯耆(鳥取中西部)
・次男には、紀伊(和歌山)
・三男には、因幡(兵庫南西部)・播磨(姫路)
・四男には、丹波(京都中央部)・山城(京都南部)・和泉(大阪和泉)
・五男には、美作(岡山東北部)・但馬(兵庫北部)・備後(広島東部)
この頃、全国66か国のうち11か国が山名氏の所領だったため、当時の山名氏は「六分一殿」と呼ばれるまで繁栄したそうです。
しかし、ここからがまずかった。
5兄弟に領地をわけたとこまではよかったのですが、5兄弟の子供たちや孫たちが、足利氏に巻き込まれて家督争いをします。
これは、第3代将軍・足利義満がチカラをつけすぎた山名氏を排除するために謀略を企てたともいわれていますが、山名一族は、家督争いの矛先を足利氏に向けて「明徳の乱」を起こしてしまいます。
しかし幕府軍の反撃にあい敗北すると謀反をおこした者たちは処刑、処分されてしまいました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの但馬・伯耆・因幡の守護のみとなり、一族は大幅にその勢力が減少したそうです。
そして、山名氏の当主は伯耆日野の地で日野山名氏として再起をはかることになるのですが、ここからがすごいです。
1399年(応永六年)大内氏が室町幕府に対して起こした反乱「応永の乱」が起こると、山名一族は再集結をして武功をあげます。すると備後・安芸・石見の3か国の守護に任じられ大内氏の監視役となりました。
さらには、1441年(嘉吉元年)山名時氏の曾孫である山名宗全が、第6代・足利将軍を暗殺した赤松氏を討伐すると、その功績により備前(岡山東南部)・美作(岡山北東部)・播磨(姫路)の守護職を与えられ、再び勢力を広げることができたのです。
再び栄光を掴んだ山名氏でしたが、残念ながらここから、衰退してしまいます。そのキッカケが1467年(応仁元年)に起きた何のための戦かわからなかったと言われる「応仁の乱」です。
「応仁の乱」の理由は、やる気のない第8代将軍・足利義政の優柔不断な対応からはじまります。
足利義政と妻の日野富子の間には子宝がめぐまれなかったため、次期将軍を寺に出家していた弟の足利義視にお願いをしたそうです。
しかし足利義視が還俗したとたんに足利義政と日野富子のあいだに待望の男児が生まれたてしまいました。
すると、時期将軍の後継者争を理由に有力者たちも揉めだして東西にわかれて「応仁の乱」が勃発したという話しです。
その有力者たちとは、三管領と呼ばれていた、征夷大将軍の次にえらいといわれている細川氏、斯波氏、畠山氏。
四職と呼ばれていた、軍事の侍長たち、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏。
他にも、足利義政の相談相手だった伊勢氏や、軍事力のある土岐氏、朝倉氏、大内氏などの実力者たちも参戦しそれぞれの思惑、家督争い権力争いなどが複雑に絡んでいたといわれてます。
まあ、山名氏の立場からすると管領・細川氏との主導権争いですかね。
「応仁の乱」は、敵味方が入り乱れ、誰が敵で味方かわからなくなるような大変混乱した戦いになりました。
途中、最重要人物の山名宗全や細川勝元が死去しますが、それでもおさまらず、無益な戦いは11年間続いたそうです。その結果、権力者たちのチカラが失われ100年続く戦国期に突入したのです。
鎌倉幕府が開かれてから武家政権の中心にいた山名氏も例外なくチカラを失いました。それまで守護職として国を治めていた山陰地方でも下剋上が始まります。ご先祖さまの長谷部氏も山名氏に従属していたため「応仁の乱」でチカラを失ったと思われます。
このように、山名氏の歴史を辿ってみましたが、ここであることに気がつきました。
それは、「日野」という地名です。
平安時代末期に以仁王を逃がした長谷部信連が流された場所は、伯耆「日野」です。
「明徳の乱」で粛清された山名氏は、伯耆「日野」の地で、日野山名氏として存続しました。
「応仁の乱」のキッカケとなった、足利義政の妻は、「日野」富子です。山名宗全は日野富子の息子、足利義尚を支え戦いました。
そして、ご隠居の故郷は、「日野」の隣村で、長谷部一族の見渡す限りの山々は、「日野」の山につながっています。
そして、我が長谷部家は、代々「日野」から妻を娶っていました。
何の確証もありません。たしかな云い伝えも聞いたことがありません。日野富子は、京都の公家である日野家出身と言われています。
ただただ、ファミリーヒストリーを調べると「日野」の名に多く触れたということです。果たしてこれは、偶然でしょうか。
ひとり勝手に「歴史書」にも記されていない偶然にロマンを感じています