【152日目】陰徳太平記
ご隠居からのメール:【陰徳太平記】
>いまのところ、1562年に毛利氏の雲州侵攻に元信が参戦していたこ
>とまでは解っているが、その後、関ケ原までの動きで長谷部(長)
>の名を見つけることができていない。この頃に亡くなっていて月山富
>田城の戦にも参戦していないのではないだろうか。なぜなら、毛利
>の九州侵攻や秀吉の慶長の役。それこそ関ケ原に長谷部氏の名が少
>しも残っていないからだ。
その推理はほぼ正しいと思う。「陰徳太平記」には次のような記述がある。
雲州という地名はまぎらわしい。雲州侵攻というとき、鳥取城攻めも入るのだろうか。上記引用文の後者は吉川経家が鳥取城に籠城していたとき、秀吉軍が攻めてきたときの話だが、何年だろう。
1562年(永禄五年)毛利軍の雲州侵攻のときではなく、秀吉軍の雲州侵攻(?)のときのような気がする。年代記に秀吉軍の雲州侵攻(?)も追加してくれ。
1562年(永禄五年)の、毛利軍が雲州侵攻では、雲州白鹿攻め(城主は松田兵部小輔、大炊介)、毛利隆元死去、というオレのメモ書きが残っている。
返信:【Re_陰徳太平記】
年代記に追記しておいた。秀吉が鳥取城を攻めたときは、米を商人から買占め、米の価格が高騰したと記載がある。「鳥取城の渇殺し」は相当悲惨なものだったようだよ。
山名氏は、「応仁の乱」以降さまざまな支流が生まれているようだか、山名豊国は、尼子再興軍に呼応した後に毛利氏と和解して寝返ったそうだ。
ただし、日野山名氏は、上月城の戦いまで尼子再興軍に属していた。そして、毛利氏に寝返った山名豊国一族は豊臣秀吉に滅亡させられることになった。
ご先祖さまが、尼子再興軍に呼応していたのであれば、その選択は間違っていなさそうだね。もし、毛利軍として豊臣秀吉と戦っていたら悲惨な目にあっていたね。
1583年(天正十一年)に毛利氏と豊臣秀吉で中国国分の話し合いがあり、高梁川が境界線になった。自分の記憶では、長丑之助が、秀吉から知行した西谷の地は、高梁川の東側、ご隠居の故郷である高瀬は高梁川の西側だったような気がする。
ご先祖様は、1578年(天正六年)の「上月城の戦い」で敗れたことで、新見氏を頼り高瀬の地に落ちのびたのかな。しかし、そのときに矢野庄の長谷部氏が援助してくれても良いような気もするが、、袂を分けたのだろうか。
血族ではなく毛利氏家臣の新見氏が助けてくれたということになる。そう考えると、1600年(慶長五年)の関ケ原で一家四散したというのは、間違っている気がするな。
それ以前の1566年(永禄九年)のタイミングで、長谷部一族は一家四散してると推測するよ。
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