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【70日目】張家口での新生活

ご隠居からのメール:【張家口での新生活】

ノモンハン戦争から政局や思想が変わっている? もっと前からだろう。昭和十二年の日中戦争勃発ーーこれもあきらかに戦争なのに支那事変とあたかも戦争でないかのようにみなしている。軍人官僚の悪いクセだ。

かと思うと、昭和十三年には国家総動員法を可決した。国家総動員とは武器を持たない女子供も戦争の最前線に立たせ、爆弾の雨にさらすという意味だ。いやだといえば、非国民と呼ばれる。お産のために内地へ帰りたいなどといえば、非国民と呼ばれかねない時局だった。悪妻とか大陸性がないと言われるより、非国民と呼ばれるほうがこたえる。

皮肉なことに、昭和十六年四月には日ソ中立条約が締結されたため、国境最前線の危険な張家口がかえって安全地帯に思えたのかもしれない。與一さんには再婚する余裕ができたというわけだ。

最初は妹の百合子さんを希望したが、流石に素さんがそれを断り、親戚の吉田文子さんを再婚相手に推薦した。もっとも、張家口が安全地帯だったのはソ連が昭和二十年八月に一方的に中立条約を破棄して攻め寄せてくるまでのつかのまのことだがね。

それ以前に、今度は妻子を日本に帰国させたので、オレは無事、高瀬に戻ることができた。昭和二十年八月、ソ連軍が国境を越えて張家口に迫ると、関東軍の将兵たちは民間人を見捨ててさっさと日本へ逃げ帰ったが、根本博中将の率いる将兵たちは武装解除を拒否し、民間人が全員退去する八月二十日までソ連軍に抵抗した。

このことは知る人ぞ知る事実だが、日本人をはじめ中国人やロシア人の大半は知らないふりをし続けている。


返信:【張家口での新生活】

すごい、物語だね。結果がわかっているのに、当時の様子を色々と想像することができた。張家口に引越ししてからの二ヶ月。貴美子さんの心と身体の疲労が目に浮かぶ。見知らぬ海外の土地、二間の小さな家、幼い子供、貧素な食生活。旦那は国家を背負い、立身出世の野望を抱く。

心のよりどころは、内地にいる両親との手紙のやりとりのみ、、。

この後、二か月間、素さん、はるさんは貴美子さんと連絡が取れず、11月に悲しい電報を受け取ったのだろうか。それも、早苗さんと貴美子さんの訃報を同時に聞いたのだろうか。

ふたりが亡くなったことを聞いて、急ぎ京都から張家口に移動しても3日、4日かかりそうだから。早苗さん、貴美子さんの亡骸と会えたのか。そんなことまで考えてしまう。そして、体調を悪くして寝たきりになった貴美子さんの代わりに文孝さんの面倒をみてくれたのは、きっと、中国人の女中クーニャンさんだったんだね。

たしか、このあと、はるさんが文孝さんを迎えに来たんじゃなかったっけ? しばらく、京都で過ごしたのかな?それとも、三歳まで輿一さんと離れ、いしさん、つねさんが面倒みながら高瀬で過ごしたのだろうか。

しかし、素さんは、よく輿一さんの再婚を手助けして文子さんを紹介したね。輿一さんが猛反省して素さん、はるさんに頭を下げたのか。それとも、お国のために働く輿一さんを支える時勢だったのか。

とにかく、スゴイ話だ。この手紙をだした1ヶ月後、昭和十五年(1940年)10月10日に、お父さんの妹、早苗さんは予定日よりも1ヶ月早く生まれ4日後に亡くなってしまう。そして、その1ヶ月後、昭和十五年(1940年)11月8日に貴美子さんは、早苗さんの後を追うように、1歳の坊やを残して亡くなてしまった。結末がわかっていても泣けてくる。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙

● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


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