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■【より道‐52】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「正中の変」

昔の人は血族意識が強く、血のつながっている一族のことを「氏族」と呼び勢力を広げていきました。

有名どころでは、皇族の身分を離れ臣下となった源氏や平氏。「大化の改新」の功績により恩賞を与えられた藤原氏。女帝から女官に与えられたたちばな氏の四氏族などが有名で、源平藤橘げんぺいとうきつと呼ばれています。

いっぽう「名字」は、平安時代末期ごろから、君主から与えられた土地の地名から名乗るケースが多くなったと言われています。当時の価値観を想像すると「ここは、俺の領土だ!」と縄張りを主張していたのでしょうか。

「名字」はこの頃から、「氏」に変わり新たな血族呼称として子孫に受け継がれるようになっていきました。これを「家」と呼ぶようになります。背景には人口が増えたことで「氏」だけでは、個人の判別ができなくなったというのが理由のようです。

とはいえ、出身氏族を重んずる当時の意識から「氏」は家柄の由緒を示す誇りであり続けたそうです。鎌倉時代から続く武家政権は、家柄の由緒を守り血族を増やすことで勢力を広げていくことが重要となり、政略結婚が当たり前になりました。

すると、当時の人たちは、命を懸けて家を守り一族を守ってきたというのが日本の歴史ということになるのでしょうか。


■ 室町時代に至るまで
1221年(承久三年)の「承久の乱」に敗北した朝廷は幕府に完全に従属するようになり、皇位継承なども幕府が管理するようになりました。

「承久の乱」が起きるまでの日本は、東日本は鎌倉が、西日本は朝廷が統治していたのですが、朝廷が敗北したことで日本全体を武力が治める武家政権の時代となったのです。

幕府の勢力が西日本に広がっていくと、御家人や公家などの領主や、地頭じとうとよばれる武士で税を徴収する者、そして現地住人などの間でもめごとが起こるようになります。

そこで、道徳や道理と呼ばれた武家社会の慣習で善悪を判断する「御成敗式目ごせいばいしきもく」と呼ばれる法令が定められます。これは、全部で51カ条あり、とても面白そうなので今度調べようと思います。

法が整備されたことで国が徐々に安定していくと、平氏である北条一族に権力が集中していきました。

しかしこの頃に、モンゴル帝国の軍隊が海を渡って日本に侵攻してきたのです。「元寇げんこう」と呼ばれています。

当時、ユーラシア大陸のほとんどを制していたモンゴル帝国は、黄金の国ジパングを制するために1274年(文永十一年) と1281年(弘安四年)の2度にもわたり攻め込んできましたが、御家人たちが命を懸けて日本を守ってくれたといわれています。このときの「神風」はとても有名ですね。

しかし、蒙古軍が攻めてきたことで、幕府はじめ御家人たちは、苦境に迫られました。なぜなら、鎌倉時代は、「御恩と奉公」という、日本人の気質にあったというか、それこそ武士の道理のような決まりごとがあったからです。

それは、幕府が御家人に領地などの恩賞をあたえ、御家人はそれに報いるために、鎌倉のために命を懸けて戦うというものです。

蒙古軍が攻めてきたことで御家人たちは、人命や食料、戦費などを費やしましたが、防衛戦だったため幕府は十分な恩賞を与えることができませんでした。そのことに不満を抱える武士たちが多く生まれたのです。

この機会を幕府の弱体とみるや平氏一族の権力集中に我慢ならない朝廷は、討幕を企てるようになったと言われています。


■王政復古の野望
これまた、ややこし話しなのですが「承久の乱」以降、皇位継承者を鎌倉幕府である北条氏が管理することになったのですが、第88代・後嵯峨ごさが天皇が崩御すると息子二人の後継者争いが勃発してしまいます。

これは、後嵯峨天皇が、「どうせ、後継者は幕府の言いなりで決まるのだから、自分が後継者を決めなくていいだろう」などと考えたからとも言われています。「死人に口なし」ですね。

なので、鎌倉幕府はふたりの息子を系統に分けて順番に天皇にしましょうとしました。それが、「大覚寺だいかくじ統」と「持明院じみょういん統」と呼ばれる、両統迭立りょうとうてつりつです。

正直この辺りは、本当に覚える気になりません。でも、この問題がやがて、大きな波乱をうむことになります。

それは、後嵯峨天皇の曾孫である後醍醐天皇が「皇位継承について、いちいち幕府が介入してくることがおかしい。自らが正式な天皇後継者だ」と主張しだしたからです。

後醍醐天皇は、そもそも平氏が権力を握る世に不満もあるし、世の中は乱れている。貧しい者が食べ物を奪われ家を燃やされている。いっそのこと鎌倉幕府を倒して、政権を朝廷にもどせばこのようなことにならないと、討幕を企てました。

そのためには、有力な御家人や僧たちを仲間にする必要があります。そこで、公家で腹心の日野資朝ひのすけとも日野俊基ひのとしもとが宴会などを開催して賛同者を集めました。このときの様子から「無礼講」という言葉ができたそうです。

しかし討幕計画は、幕府側にバレてしまいましす。1324年(正中元年)に起きた「正中しょうちゅうの変」です。

このときは、側近の日野資朝と日野俊基が後醍醐天皇に嫌疑が及ばぬよう、自ら罪をかぶり鎌倉へ連行されたと言われています。

さらには、後醍醐天皇は、「釈明書」を鎌倉幕府に送りました。このとき幕府は「恐れ多い」として書状を返却しようとしましたが、得宗とくそうと呼ばれる北条氏の嫡流である北条高時ほうじょうたかときが家臣に無理やり読ませると、その家臣は、突然鼻血を出して7日間のうちに亡くなり、人々は神仏の祟りだと噂されたとも言われています。

ともあれ、このときは、日野資朝は流罪。後醍醐天皇は冤罪と判断されました。兵の持たない朝廷が、まさか、鎌倉幕府に弓を弾くなど思ってもみなかったそうです。

この頃のご先祖さまで有名な人は、佐々木道誉ささきどうよのちの京極道誉きょうごくどうよ。まわりからは、判官はんかんと呼ばれていたそうです。

「正中の変」が起きる頃は、鎌倉幕府で相伴衆しゅうばんしゅうと呼ばれる、殿中における宴会の席や、他家訪問の際に随従する仕事をしていたそうです。

そう考えると、自分の太鼓芸は一流で、社会人になってから色々な社長さんたちに可愛がっていただいたな。。。

だいぶ、、、こじつけですけどね。


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