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■【より道‐95】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「応永の乱」

周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊などの守護大名であった大内義弘おおうちよしひろは、足利義満あしかがよしみつの2歳年上で、いちばんの家臣でした。

全国行脚するために安芸の厳島神社へ参拝にも随行していますし、九州探題きゅうしゅうたんだい今川了俊いまがわりょうしゅんと共に九州平定のために挙兵しました。また、1391年(明徳二年)に起きた「明徳の乱」で活躍した翌年には、南北朝合一の仲介役までしています。

そのような忠義を尽くした大内義弘を足利義満は追い込み「応永の乱」に発展させました。今回は、そのあたりを記してみたいと思います。


■征夷大将軍・足利義満

足利義満が家督を継いだのは十歳の頃。十二歳で九州平定のために今川了俊と大内義広を九州へ派遣して、十九歳で京都室町にある「花の御所」に幕政を移転させます。そして、育ての親である細川頼之ほそかわよりゆきが追放された「康暦の政変こうりゃくのせいへん」は1379年(康暦元年)足利義満が二十歳の頃の出来事でした。

その後、自らの政治力を増すために、将軍を補佐する「管領かんれい」の権力を分散させて将軍直下の軍勢、「奉公衆ほうこうしゅう」の制度を設置したり、1385年(至徳二年)になると、全国の寺や神社を視察行脚しながら、大名たちに自らの権力を示すようになりました。

足利義満が三十歳の頃、有力大名である土岐一族に「土岐康行ときやすゆきの乱」を起こさせて、三十二歳の頃には、山名一族に「明徳の乱」を起こさせました。

そして、安芸・厳島神社を参詣後、四国の細川頼之に面会を果たし、細川頼之の弟で養子となっていた細川頼元ほそかわよりもとを管領に就けて、1392年(明徳三年)三十三歳のときに、「明徳の和約」南北朝の合一を果たしました。

1395年(応永二年)には、息子の足利義持あしかがよしもちに譲り、自らは太政大臣にまでのぼり詰めましたが、寺社勢力を支配するために出家します。武家、公家の頂点に立ち、今度は仏門でトップを目指したのでしょう。このときに、大内義弘も一緒に出家したそうです。また、この年に九州探題として勢力を広げていた今川了俊を強制的に辞任させました。


■大内義弘の対立

1397年(応永四年)足利義満が三十八歳の頃、金閣寺の造営をはじめました。そこで、諸大名に費用を出すように求めると、大内義弘は「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わなかったそうです。

このとき、大内義弘は、なぜこのように反発したのでしょう。それは、同年に少弐しょうに氏討伐を命じられたときに、筑前で弟の大内満弘が討死したのですが、その子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせたと言われています。さらには、足利義満が裏で少弐氏と菊地氏に大内義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していたそうです。

いったい、だれが、そのような噂をながしたのかわかりませんが、1398年(応永五年)、来日した朝鮮使節から大内義弘が莫大な進物を受け取って
いることを斯波義将しばよしゆきが「大内義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と足利義満に讒言ざんげんし、それが大内義弘に聞こえて激怒したともあります。

足利義満は度々、大内義弘へ上洛を催促するようになりますが、今度は、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れます。そして、追い込まれた大内義弘は鎌倉公方・足利満兼あしかがみつかねと密約を結んだのです。

この密約は、足利義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷された今川了俊が取り次いだといわれています。更には、先年の「土岐康行の乱」で没落していた美濃の土岐氏、「明徳の乱」で滅ぼされた山名氏清やまなうじきよの嫡男や、近江の京極秀満きょうごくひでみつ比叡山ひえいざん興福寺こうふくじ衆徒、楠木くすのき氏や菊地氏ら旧南朝方とまで連絡をとり挙兵をうながしたというのが、流れのようです。


■応永の乱

その後、大内義弘は1399年(応永六年)に軍勢を率いて和泉いずみ・堺に軍勢を率いて上陸しますが、家臣を京へ入洛させて、自身は参洛しませんでした。すると室町幕府内では、大内義弘謀反の噂が広がったそうです。

足利義満は禅僧の絶海中津ぜっかいちゅうしんを使者として和泉・堺へ派遣し、上洛交渉をさせましたが、交渉は決裂。「応永の乱」に発展しました。

大内義弘は、堺に18町の城を築き籠城する作戦にでました。幕府軍3万で堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆が封鎖します。対する大内義弘の軍勢は5千でした。

幕府軍が一斉に総攻撃を開始しして、管領・畠山基国はたけやまもとくに山名時熙やまなときひろの軍勢が先陣を切り、細川氏、赤松氏は南側から、六角氏、京極氏は東側から攻め寄せ、戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出たそうです。

その頃、大内義弘に賛同した「土岐康行の乱」で遺恨を残す土岐氏が挙兵して尾張・美濃国へ侵攻。「明徳の乱」で苦渋を飲まされた山名時清やまなとききよも丹波へ討ち入りをして京へ侵入して火を放ち、幕府軍本陣を目指して突入していきました。

京極秀満きょうごくみつひでは近江で挙兵して、京への侵攻を図りますが、三井寺の衆徒が食い止め、兄の京極高詮きょうごくたかのりが堺から引き返して討伐しました。そして、鎌倉公方・足利満兼は1万騎余を率いて武蔵国まで進みましたが、関東管領・上杉憲定うえすぎのりさだいさめられて兵を止めました。

そして、大内義弘は、敵陣に斬り込み奮戦しますが、畠山基国に討ち取られて堺は落城したと言います、


ーーこれが『応永記』に記されている内容のようです。ざっと解釈すると、大内義弘を陥れるために、噂を流し続けた人物がいて、その噂に翻弄されて、大内義弘が和泉に軍をつれて籠城したという話しなわけですが、これだと大内義弘に大義名分はなにもありません。ただ、弟が死んで恩賞をくれなかったことに、怒ったことになります。

じぶんは、「明徳の和約」の反故ほごも一つの理由なのではないかと思っています。もともと、大内氏は南朝に属していましたが、先代将軍・足利義詮あしかがよしあきらの時代に室町幕府・北朝に寝返りました。

その後、足利義詮、足利義満に忠義を尽くしましたが、もちろん、南朝とも秘かにつながっていたと思います。だからこそ、南北朝合一の仲介役となったのではないでしょうか。

しかし、北朝と足利義満は、両統迭立の約束を守りませんでした。これでは、大内義弘は面子が保てません。なので、子孫のためにも挙兵し命を賭して戦ったというのが、じぶんの妄想になります。

今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている」と語ったと記録しています。

足利義満が、日本史で評価されないのは、「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が武士道に反していたからかもしれません。


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