■【より道‐46】戸籍制度から想像する歴史ロマン
鎌倉時代に活躍した始祖・長谷部信連や戦国期を生き延びた長谷部元信など、日本史に名を残した人は、Web検索や歴史書などで断片的な情報を収集することができますが、普通の人はそうもいきません。
その場合、ご先祖さまの情報を知るには「戸籍謄本」を取り寄せるのが一般的ですが、役所に申請書を提出するなどの細かい事務手続きが必要なので少々面倒です。しかし、わが家の場合、すでにご隠居である父が手に入れてくれていました。
自分の祖父母は、日本史上一番大変な国と国が戦争をした時代を過ごしました。近代史は、まだまだ隠されている事が多いので、これからも学んでいくつもりですが、少し休止して、しばらくは「戸籍謄本」に書かれていたご先祖さまの時代背景とその様子を調べていきたいと思います。
しかし、そもそも「戸籍謄本」はいつからできたものなのでしょう。そこから調べてみることにしました。
■戸籍制度の歴史
古代日本の戸籍制度を調べると、「庚午年籍」や「庚寅年籍」というものがあったようです。この戸籍制度は、6世紀ごろに天皇中心の政治がはじまった「大化の改新」が起こると「班田収授法」という法のもと、人民・農地の管理と租税・徴兵の目的でつくられたそうです。
しかし、やがて民たちは正しく報告しなくなり、この法律は機能しなくなったと言われています。そしてそのまま、平安時代末期から明治時代まで戸籍制度といわれるものは、なくなってしまったそうです。
鎌倉時代になると、武士の政権になり、この頃から公家や武士を中心に名が広まっていきました。当時の名前には、「氏」「姓」「名字」がありますが、「幼名」や「諱」「通称」と呼ばれるものまであって、かなり複雑です。こちらの名前については、またの機会に詳しく調べようと思います。
戦国時代の終焉が近づくと、豊臣秀吉は「太閤検地」を行いました。これは年貢を取り立てるために、その土地の権利関係、土地の広さや、どれだけの収穫があるか、そこの農民は誰なのか等を帳面に書いていくという作業です。このときに、誰がどの土地を有しているか明確になったと言われています。
徳川幕府が開かれた江戸時代になっても、戸籍制度は復活しませんでした。しかしその頃は、士農工商穢多非人という身分制度、差別制度が確立されてました。そのため、「宗門人別改帳」という村や町ごとに作成された台帳や、お寺の作成した「過去帳」というご先祖様の戒名と亡くなった年が書かれている帳簿。そして、武士については「分限帳」と呼ばれる武士の名簿が藩ごとに作られていました。
幕末・明治になると、欧米列強の脅威に備え近代国家を目指して様々な制度の整備をします。そして1872年(明治五年)に国としての本格的な戸籍制度が開始されました。その内容は壬申戸籍と呼ばれる戸籍制度で、1875年(明治八年)には平民苗字必称義務令により、すべての国民が苗字を名乗ることを義務付されたそうです。
日本が敗戦すると1945年(昭和二十年)から1952年(昭和二十七年)までGHQ・連合国最高司令官総司令部による占領下におかれて、あらたな国造り、法がつくられていきますが、1948年(昭和二十三年)に新しい戸籍法が施行されました。それまでの日本は「家」を基本単位としていましたが「家制度」が廃止されて、親子単位の登録に変更になります。いままでの嫡子相続をしていた「戸主」は特別な権利をもたなくなったのです。
ここでようやく現在の戸籍制度が確立したことになりますが、日本は、戦争に負けて自由主義、民主主義のもと一つの文化を失っていたのですね。
わが家の戸籍謄本には、自分から7代前の長谷部與左衛門さんから記録が残っていました。ただ、残念ながら、與左衛門さんの生年月日や亡くなった日付は記載されていません。
輿左衛門さんの息子、弥左衛門さんから、父・妻・生年月日・死亡日・入籍・相続した日付などの記載があります。しかし、この頃は、長谷部の家を継いだ当主しか名が残っていません。兄弟の情報まで記載されているのは、祖父の時代、昭和の戸籍制度改定でようやくわかるようになっています。
この断片的な情報を整理するだけでも、時代背景を想像しながらご先祖さまの事を思うことができます。我が家には、仏壇もないし墓参りもしていませんが、常日頃から、ご先祖さまのことを想いうかべています。近所に八幡神社があるので、氏子として自分自身に誓いもたてにいったりもしていますが、現代の自分には、このくらいしかできません。まあ充分ですよね。