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スクール長ダイアログ <日常生活における心の豊かさについて考える①>

10月25日 神戸大学V.School長 國部克彦

 V.Schoolでは,8月から,JTのスポンサーのもとで,「日常生活における心の豊かさ」についてのプロジェクトが進んでいます。安川客員教授がリードする秀逸のカリキュラムのもと,講義のレベルの高さと参加学生の熱心さが掛け合わされて,大変充実した内容となっており,私も毎回開講日を待ち遠しく思っています。10月29日(木)の価値創造サロンは,このプロジェクトの内容がテーマで,私も登壇するので,その準備もかねて,これまでの考えをまとめてみたいと思います。
 このプロジェクトでは,「日常生活における心の豊かさ」がテーマですが,正直,これは非常に難しいテーマです。なぜなら,「豊かさ」とは,まさにヴィトゲンシュタインが指摘した「語り得ぬもの」の典型だからです。それでは,彼に倣って,「語り得ぬもの」,つまり「豊かさ」については,「沈黙しなければならない」のでしょうか。このコラムでは,ヴィトゲンシュタインの前期の著書である「論理哲学論考」までしか説明を終えていないのですが,その範囲ではその通りです。しかしその後,ヴィトゲンシュタインは,「語り得ぬもの」に対する探究を続け,その成果は「言語ゲーム論」として結実します。「言語ゲーム論」のエッセンスは,「意味は使用(実践)で決まる」というもので,このヴィトゲンシュタインの後期の理論に立てば,「語り得ぬもの」は「語り得ぬ」ままで,その意味を把握することは可能になるのです。
 後期の理論まで行かなくても,「論理哲学論考」の範囲でも,「語り得ぬ」ものを「示す」ことができると,ヴィトゲンシュタインが指摘していたことを覚えておられるでしょうか?(10月14日のスクール長ダイアログで論じています。) このときの説明では,「語り得ぬ」ものとしての「論理形式」について説明したので,難しかったかもしれませんが,入門書でよく用いられる例として,画家と絵の関係があります。絵が存在していることは,その絵を描いた画家の存在を「示し」ています。しかし,その画家はその絵に「描か」れていません。もちろん,画家を絵の中に「描く」ことは可能ですが,今度は,絵の中に画家を「描いて」いる画家が「描かれ」ていません。これを続けるとエンドレスで,無限小の世界です。しかし,ここでの問題は,画家を絵の中に「描く」ことではなく,画家の存在を「示す」ことです。もちろん,「画家」は「豊かさ」の比喩表現で,「描く」は「語る」と同じ意味です。
 「豊かさ」を語らずに「示す」ことは,ある意味簡単です。特に,「経済的豊かさ」や「身体的豊かさ」を示すことは,豊かな人なら簡単にできることでしょう。しかし,私たちの問題は「心の豊かさ」です。心は,お金のように使って見せることも,身体のように動かしたり,触れたりすることができないので,言葉で語るしかありません。もちろん,態度で示すことはできますが,態度は使用と同じで,瞬間的な現象なので,それを切り取って皆で共有して展開することができません。
 それでは,「語り得ぬもの」である「豊かさ」を語るにはどうすればよいのでしょうか。それには,真の「豊かさ」は語ることができないと諦めて,語るしかありません。しかし,その「真ではない豊かさ」を語ることで,「真の豊かさ」を少しでも「示す」ことができれば,一定の成功を収めたということはできるのではないでしょうか。「豊かさ」は使用(実践)において現れるわけですから,「真ではない豊かさ」を語ることが「真の豊かさ」の実践を導くことができれば,よいということになります。
 今日は,「豊かさ」を議論するための前提を考えるつもりで,思わぬ哲学論議になってしまいましたが,これも実はある種の「豊かさ」を示すことになっているかもしれません。と言ってしまうと,本当はお終いなのですが,それでもあえて付け加えれば,この最後の段落を読まずに,これまでの議論の中から,哲学的思考の「豊かさ」を感じた人が一人でもいたら,それが「豊かさ」を示したことになるのかもしれません。

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