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スクール長ダイアログ <価値創造教育の意義①>

11月11日 神戸大学V.School長 國部克彦

 価値創造の必要性は,企業でも,政府でも,大学でも,頻繁に叫ばれていますが,そのための教育プログラムは,世界的に見ても,まだ十分に構築されていません。私たちは,Creating Value Allianceという国際的なネットワークを通して,アメリカ,ヨーロッパ,アジアの大学や機関と,価値創造の教育プログラムについて検討していますが,こちらもまだ「valueとは何か」について共通の理解を模索している段階です。その意味で,V.Schoolは世界の先陣を切った試みと言えますが,開校して半年が過ぎた現在,価値創造教育の意義を改めて振り返ってみたいと思います。
 価値創造教育を語るためには,まず「価値とは何か」を考えないといけません。しかし,このコラムでもこれまで議論してきましたように,大変難しい問題です。価値は,本来哲学的なテーマですが,哲学者が個別に価値について議論していることはあっても,哲学として価値についての理論がまとまっているわけではありません。これは,ひとつには価値を専門に扱う学問分野として経済学が急速に発展してきたこととも関係しています。たしかに,経済学において,価値は,現在の主流派の新古典派経済学においても,かつては隆盛を極めたマルクス経済学においても,中心的課題ではありますが,その理論を細かく見ていくと,価値創造にとって最も重要なポイントが,仮説として前提にされたまま,検討対象とされていないことが分かります。
 たとえば,新古典派経済学では,価値は効用として定義されますが,効用が具体的にどのように測定できるのかについては理論化されていません。ある一定の条件下で成立した価格を効用とみなして議論を展開することはできますが,それは仮説にすぎません。一方,マルクス経済学では,新古典派経済学よりもはるかに多くの価値概念が出てきて,かつては「価値形態論」という研究分野まであったくらいですが,最終的に価値は労働の投下時間で測定されるので,これも仮説にすぎません。本当に重要なポイントは,目に見えない価値と目に見える価値(その一般的な形式は価格)の関係なのですが,この点は経済学では十分に解明されていないのです。(なおここでは,この問題を数式で解くことは,ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にしたがって,トートロジーと考えられるので,問題はその外部にあります。)
 ただし,マルクスは,さすがによくわかっていて,この問題を商品から貨幣への転換ととらえて,それを「命がけの飛躍」と表現しています。これは,かのマルクスをしても,目に見えない価値(商品の中の価値)と目に見える価値(貨幣価値)の関係は,文学的表現でしか説明できないことを示しています。なお,もう少し続ければ,マルクスは,目に見えない価値の本質を労働時間の投下によって生じると考えて,目に見えるようにして,労働価値と貨幣価値の差が資本家に搾取されていると訴えたのですが,目に見えない価値が労働時間によって構成されている理由は明確には示されていません。(なお,上記の説明は,簡略化のため一部マルクス経済学の専門用語を使用せずに説明していることをお断りしておきます。)
 専門の経済学者ですら,これだけ苦労するのですが,専門外の私たちが「価値とは何か」を考えることは,無駄ではないにしろ,相当の時間(場合によっては人生のすべての時間)を要してしまいます。こういう場合は,定義からスタートするしかありません。では,価値をどのように定義すればよいのでしょうか?

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