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スクール長ダイアログ <価値創造と民主的な社会③>

12月12日 神戸大学V.School長 國部克彦

 では「民主的な社会」とはいったいどのような社会なのでしょうか。政治的な代表者を選挙で選んでいれば民主的なのでしょうか。民に選挙権が与えられていなければ,それは民主的な社会とは言えないでしょうが,選挙権を与えられていればそれでよいかと言えば,そうでありません。選挙で選ばれた人間が暴走して,民主主義を蹂躙することも,これまでの人類の歴史では何度も繰り返されてきましたし,それは現在も何も変わりません。
 民主という概念の生みの親でもあるルソーは,民衆の意思を「一般意志」と呼んで,選ばれた人間(代議員)は,「一般意志」に従わなければならない,と主張しましたが,どのようにすれば「一般意志」に従うことができるのかは大変な難問です。ルソーは,民衆全員が参加する直接議会をどんなことがあっても,定期的に開催すべきと主張しましたが,これはルソーが想定した都市国家なら可能でも,現在の国家ではかなり難しい課題です。
 したがって,民主的な社会という概念を外形的な条件で考えることには,大きな限界があります。民主的な社会を実現するためには,私たち一人ひとりができることから考えていくべきです。そのように考えると,民主的な社会の根源には,カントが指摘したように,「個人の尊厳」がヒントになります。民主的な社会とは,「個人の尊厳」を第一の価値とする社会と定義すれば,人々が「個人の尊厳」を第一に行動すれば,自然に民主的な社会が実現することになります。選挙権はそのための必要条件であって,十分条件ではないのです。
 ここがとても大切なところで,民主的な社会とは,「状態」ではありません。すべての個人が,民主的な社会を目指して行動する,その「方向性」こそが,民主的な社会そのものであって,それをある「状態」で満足すると,民主化へ向かう力が止まることになり,すぐに非民主的な傾向が生まれてしまいます。それを克服するためには,「個人の尊厳を第一にする」という意識を常に実践の場で顕在化させることが必要になります。
 しかし,「個人の尊厳」とは何でしょうか。あなたは自分自身の尊厳が損なわれていることにどのようにして気づくのでしょうか。もちろん,誰かに侮辱されると尊厳が傷つけられたということになりますが,生活のために,あまりしたくない仕事をせざるを得ないときも,やはり尊厳が損なわれています。これを展開していけば,食べたいものが食べられないとき,読みたい本が読めないとき,着たい服が着られないとき,やはりあなたの尊厳は損なわれています。これを我儘と切って捨てては,そこに非民主的な権威主義が顔を出します。「個人の尊厳を第一にする」のであれば,それをどこまでも徹底しなければなりません。そうでなければ社会を形成する方向性を生み出す力になりません。このように考えれば,価値創造は個人の尊厳と非常に近いところにある行為であることが理解できるようになるでしょう。

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