スクール長ダイアログ <ヴィトゲンシュタインの価値⑤>
10月18日 神戸大学V.School長 國部克彦
前回は,ヴィトゲンシュタインが語ることを禁止した倫理的な言説を,禁を破って語ったときに被る問題を指摘しました。では,価値を語るとどうなるでしょうか。「論考」では,価値は倫理と連続の命題として出てきます。
たとえば,母親がよちよち歩きの赤ん坊を抱きあげて,「この子は私の命よりも大切なの」と発言すると,周りの人は何というでしょうか。「そうね」と相槌を打つか,やさしく微笑むか,いずれにしろ何らかの肯定的なリアクションをするでしょう。稀に,「いや子供より親を大切にすべきだ」とかいう偏屈な人間がいるかもしれませんが,そんな言葉で母親の価値は些かも揺らがないでしょう。つまり,価値を語っても,倫理の場合のように,否定される可能性は大変低く,たとえ否定されてもほとんど影響がないのです。
これは,倫理が他者と共有されないと意味がないのに対して,価値は他者と共有しなくても意味があるからです。「人を殺してはいけない」は他者と共有しないと意味がありませんが,「私の子供は私の命よりも大切」という価値は自分一人で完結しています。しかし,倫理は,相手に同意してもらわないと意味がないので,反発を受ける可能性があり,しかも反論されるとその真偽のほどを主張できない構造になっているのです。一方,価値にはその心配はありません。逆に,他者が自分に踏み込んでくることも泥棒のような場合を除いてありません。つまり,倫理は対話で,価値は独話です。ヴィトゲンシュタインは,「論考」に先立つ「草稿」で,「倫理は論理と同じく世界の条件でなければならない」と述べていますが,同じように価値も世界の条件として機能するのです。
これが,価値の表現形式である価格になると話は全く変わってきます。価格は現実に明示的な根拠を持ちますから,要素命題の条件を満たします。つまり,世界の条件ではなく中身です。したがって,いくらでも語ることができます。しかし,価格は相対的な概念ですから,前述の「私にとっての価値」のような絶対的な価値とは異質なものです。ヴィトゲンシュタインが「沈黙しなければならない」といったのは,絶対的な価値の場合なのですが,その絶対的な価値の場合も,倫理のような他者と共有しないといけない価値と,自己だけで完結している価値(私的な価値)があり,どちらも真偽を主張できないという意味で命題としてはノンセンス(無意味)なものとなります。
これまでの議論をまとめておきましょう。ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の目的は,「語りえるもの」と「語りえないもの」に分けることで,「語りえるもの」だけが世界を構成することを主張するものでした。 「語りえるもの」とは真偽を判定できる命題のことで,その真偽を判定できるとはどういうことかを徹底に議論しました。この結果,ヴィトゲンシュタインは,序文において,「哲学の問題を本質的な点において最終的に解決した」と主張しています。しかし同時に,「哲学の問題が解決されたとしても,ほとんどなにもなされたことにはならない,ということを示している」とも述べて,この2つがこの本の価値であると記しています。つまり,「哲学の問題をすべて解決したことが何の意味もないことを示したこと」がこの本の「価値」であり「意味」であると述べているわけです。これはどういうことでしょうか。
「語りうるもの」は何かを明確に示したことがこの本の特徴で,それによって「哲学の問題を解決」したが,それは「何の意味もない」ということは,意味は別のところにあると考えるべきでしょう。当然,それは,「語りえない」ものです。実は,「論考」は,「語りえるもの」を論じることで,「語りえないもの」の存在を示すことを目的とした書だったのです。価値は,論理や倫理と並んで,「語りえないもの」の代表の一つです。「倫理や論理は世界の条件」ですから,このような重要な事項を,このまま「語らない」で済ませてよいのでしょうか。「論考」を執筆した後,哲学の仕事は終わったとして学界を去ったヴィトゲンシュタインは,約10年の後,大学に復帰し,この「語りえぬもの」を直接は語らずに,その本質を示す議論を展開します。それが「言語ゲーム論」として結実するのが,彼の死後に公刊された「哲学探究」でした。ですので,話はまだ半分までしか済んでいませんが,「ヴィトゲンシュタインの価値」の話はとりあえず「中締め」にさせていただき,機会を見て再開したいと思います。
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