スクール長ダイアログ <価値創造と民主的な社会②>
12月7日 神戸大学V.School長 國部克彦
「民主的な社会」とは文字通り,「民」が「主」人公の社会を意味し,英語のdemocracyも同じ意味と理解できます。「民主的な社会」が人類にとって,最高の形態であることは多くの人が合意しているところでしょう。もちろん,それは民主的な社会以上の社会を構想できないからという消極的な理由から支持する人もいるでしょうが,それでも,自分が世界の主人公であるの方が,脇役であるよりも,生き生きと活躍できそうだと,誰でも思われるのではないでしょうか?
ところがこの「民主的な社会」を維持していくことは大変なことであることも,私たちは長年の経験で嫌というほど経験しています。民主主義の名のもとに多くの戦争が行われ,戦争が収まっても,民主主義の名のもとに多くの人々が殺されてきた歴史も消すことはできません。戦争まで行かなくても,民主的な社会の中での,個人間の格差が生じることで,民主主義の根幹である平等が侵され,社会が特定の人間や階層の人々に支配されるという経験も,何度も繰り返されてきましたし,今もそのような状況が克服されているとは言えません。それどころか危機的状況が増していると言えるでしょう。
では,なぜ「民主的な社会」を維持するのがこれほど難しいのでしょうか。これには諸説があって,いろいろな考え方があるでしょうが,私は,人類がまだ群れを作って生活していたころの習慣や記憶から,完全に自由になっていないことがあるのではないかと思っています。自然が脅威であったころ,人類は群れを作って,外敵から身を守ってきました。そこでは必ずリーダーがいて,その指示の下で秩序が維持されてきました。危機に臨んで,多数決などで物事を決めていたら,命がいくつあってももたなかったことでしょう。したがって,人間はリーダーの後をついていくことに,それほど抵抗はなく,むしろそれを望むような習性を根強く持っているのではないでしょうか。胸に手を当てて,自分はどうか考えてみてください。
もちろん,自らの判断でリーダーについていくのであれば問題ありませんが,判断なくついていくのであれば,そこに非民主的な傾向が現れることになります。この自らの判断を,すべての人間が意識的にできるように訓練しない限り,「民主的な社会」は,すぐに「非民主的な社会」へ変わってしまいます。その機能を担うのが教育です。この点については,ジョン・デューイが詳しく論じていますので,彼の「民主主義と教育」(岩波文庫)を参考にしてください。しかし,実際の教育が生徒に対して権威的に知識を教授する場になっていては,教育が民主的な社会を促進するどころか,逆に非民主的な人間を再生産してしまうことになるのです。残念ながら,現代の教育も後者の傾向が強いと言わざるを得ません。
それなら,民主的な教育とはどのような教育でしょうか。デューイによれば,それは権威主義的な教育になりがちな,既存の知識を中心とする教育ではなく,学生の経験に根差した教育です。この点については,彼の「経験と教育」(講談社学術文庫)を参照してください。これを社会的な文脈から考えれば,全体の経験ではなく,個人の経験に根差した社会こそ,「民主的な社会」と言えるのではないでしょうか。この個人の経験の核に価値があると考えれば,価値創造教育の社会的な意義が見えてきます。
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