スクール長ダイアログ <価値と多様性②>
9月25日 神戸大学V.School長 國部克彦
前回は,多様性を安易に求める行動が実は多様性と正反対の一様性を強化してしまう危険性をはらんでいるという話をしました。実は,多様性を求めるあらゆる言説や手段は,構造的に多様性そのものを毀損する内容を含んでいます。たとえば,アファーマティブアクションという,マイノリティを優遇しましょうという政策は,マイノリティの社会的位置づけを固定化してしまう方向でも作用します。大学でも,同じ能力なら女性教員を採用しましょうという運動がありますが,そうすると女性教員は女性だから採用されたかもしれないという負い目を背負うことになります。私たちが目指すべきことはマイノリティを優遇することではなく,マイノリティという概念をなくすことです。その中途の過程としてのアファーマティブアクションなら大きな意義があるでしょう。
多様性を求める言説や手段が常に多様性を毀損するように作用するのは,明白な理由があります。つまり,それは他者への「多様性の要求」そのものが,「暴力」を含んでいるからです。こんなことを「暴力」と呼ぶなんてと思われるかもしれませんが,人間が,他者を思い通りに動かそうとするとき,たとえそれが倫理的に善とされることであっても,そこに何らかの自己以外の力が働くかぎり,これは「暴力」です。(これは私の主張ではなく,哲学における「暴力論」の考え方です。関心のある方はワルター・ベンヤミンやジュディス・バトラーなんかをお読みください。)「暴力」は,他者をあらかじめ一定の方向へ向けようとすることですから,力がベクトルとして方向性をもつのと同様に,多様性とは逆の方向に作用します。その目的が「多様性」であったとしてもです。
したがって,私たちは他者に多様性を求めるのではなく,自らが努力して多様性に寛容にならなければなりません。もちろん,このような主張も,読者であるあなたに対して,暴力性を帯びています。実際,私たちは生きている以上,自分自身が他者に及ぼす「暴力」から解放されることはありません。私たちにできることは,自分も常に暴力を及ぼしているという自覚だけです。この自覚があるかないかが,決定的に重要です。善人のお節介が困るのは,この自覚が欠如しているからですが,多様性を善とする多くの言説がそうなってしまっています。
では,多様性に寛容になるには,どうすればよいのでしょうか。自分の周りにいる「多様な」存在に我慢強くなることでしょうか。そんなことをしたらストレスが溜まって,それこそ本当の暴力の引き金を引きかねません。そうではなくて,あなた自身の多様性を大切にすることです。同調圧力に簡単に屈せずに,自分自身の多様性を維持すること,そうすることで他者の多様性も自分の多様性と同じように尊重すべき対象として認識できるようになります。寛容とはこのようなプロセスのことを言うのです。
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