キリンのオブジェの横で迎え入れてくれるのはあなたがよかった
私が中学に上がる前、もしかしたら中学に上がってからもあったかもしれないが、とにかく両手の指では足りないくらいには昔の話。毎年夏に家族で行く海水浴場があった。泊まる宿も毎年同じだった。私はその宿込みで、この旅行が大好きだった。
初めてその宿に泊まる時、紙の地図を数回確認するだけで大抵のところに迷わず運転していける父が迷ったのを覚えている。山の中と言っても差し支えない暗い場所で、白い石像の天使が模られている噴水の様なものが道の真ん中にあって、ちょっとだけ不気味だなと思ったことも覚えている。
母が車を降りて宿を探しに行って、数分後に戻ってきた。どうやらすぐ近くだったらしい。そこそこ急な坂の途中にある、これまたそこそこ勾配の強い駐車場にメタリックグリーンのワゴン車を停めた。駐車場の横にある自販機は確か青色で、数匹蛾が群がっていた。
階段を十数段上ってたどり着いたエントランスには、白いタイル張りのキリンみたいな形をしたオブジェが置いてあった。時計かと思って見上げるも、キリンの顔の部分には宿の名前が書いてあるだけだった。そういえば豚の蚊取り線香と、イーゼルに立てかけられた小さな黒板も置いてあった。
父だか母だかが宿のオーナーと会話をしている間、私は何をしていたんだっけ。弟と話していたのか、水道の横に置いてあった貝殻を見ていたのか、階段の踊り場で転がっていたのか。深い赤色の絨毯は柔らかそうに見えたのに全く柔らかくなかったし、母には怒られたし、未だにその話をされたりもする。だからこれが私の記憶なのか、母から聞いた話を自分の記憶だと勘違いしてるのか、いまいち自信がない。
2階に上がると6、7室部屋があって、サザエだったかトコブシだったか、いずれにせよ貝の名前がついていた。数部屋しかないとはいえ、全部がそうだったかと言われると自信はないが、貝の名前の部屋があったことは確かだ。和室も洋室もあって、私達は和室に泊まることが多かった。一度隣接する建物の軒下にスズメバチの巣ができていて、部屋を変えてもらったこともあった。
廊下には白い木でできたワゴンがあって、トランプが一組置いてあった。幼かった私と弟は部屋でのんびりすることなどできず、食後はそのトランプを持ってきてババ抜きや7並べで遊んでいた。JQKには葉祥明の絵のような、シンプルで、柔らかくて、温もりを感じる絵が描かれたトランプだった。順番を待つ間、手札のその絵を見るのが好きだった。
部屋にはトイレや浴室は付いていなかったので、トイレに行くには一度部屋を出ることになる。夜、廊下にかかった鏡の前を通る時は、無意識に息を止めて歩いた。静かに階下に降りてcloseの札がかけられた食堂を見に行くのも好きだった。いつだってエントランスには白いキリンと煙を吐く豚がいた。それを確認してまたこっそりと階段を上がって、何事もなかったかのように部屋に戻っていった。
この旅行のメインは海水浴なので、もちろん海に行くことになる。宿から海水浴場までは30分程歩いたような気持ちでいたが、調べたらそこまで遠くはないようだ。宿を出て右手側にある近道を下って行く。森の中のその道を、私たち家族4人とサワガニは並進していく。途中の小川でうなぎを見たことがあったような気がする。水色のマリンシューズの歩き心地はあまりよくなくて、時々足が痛かった。
森を抜けると花畑のような場所に繋がった。ビニールハウスがなんだか冴えない様子で佇んでいて、物悲しくなったことを覚えている。舗装された道路に合流すると左手に3軒連なった海の家がある。私たち家族は1番右手の海の家ばかり利用していた。
その海の家は両親と同じ年頃の夫婦が切り盛りしていて、特に奥さんのハスキーな声と、陽で抜けた明るい茶髪のショートカットが印象的だった。毎年久しぶり、と声をかけてくれた。夫婦には2人、私と同い年くらいの女の子がいて、ときどき海の家の裏で2人で遊んでいるのを見かけた。数年前、この海の家を急に懐かしく思ってストリートビューで調べたら、どうやら閉店してしまったようだった。隣の2軒は今もやっているらしい。少し寂しく思った。
入り口の看板にはソフトクリーム型の看板がぶら下げられていて、入り口の左手には冷凍ショーケースが置いてあった。入って左手の壁にはメニューがかけられていて、右手の壁側にはお土産が置いてあった。サメの歯のストラップとか、お菓子とか。あとはシュノーケルや網などのマリングッズも置いてあった。
壁に付けられた扇風機は一生懸命首を振っていたが、どうしようもなく暑かった。奥には厨房があって、その手前右側にレジ、左手には2階に続く階段があった。2階に上がると座敷になっていて、そこで着替えさせてもらうことが多かった。1階よりも暑いし、水着は脱ぎ着しづらいし、毎度イライラしていた気がする。
空気を入れると一畳ほどになるフロートとパラソルを一本借りて、海に向かう。途中、宿から歩いてきた抜け道との合流地点を過ぎてすぐ辺り、色褪せた魚の形をしたゴミ箱があった。水面から顔を出す角度で、口が入り口になっていた。褪せた赤色の魚はいつも飲み込みきれないほどに蓄えていた。
さらに舗装された道を海へと下る。海水浴場近くにある砂利の広場の一角には、赤茶色のテングサが所狭しと並べられ陽に当てられていた。潮の匂いがいよいよ強くなって、砂と砂利の間みたいな白茶色の砂浜に到着する。マリンシューズに入る砂が気持ち悪くて嫌いだった。
砂浜に赤青黄白のボーダーのレジャーシートを敷いて、パラソルを突き刺して、大抵は母が荷物番をしていた。保冷バッグには半分凍らせたカルピスとお茶のペットボトルが数本、m&m'sのチョコレートとペコちゃんのポップキャンディが入っていた。
今思えばあまり広くはない扇型のその海水浴場は、少なくとも当時は近辺の他の海水浴場より人が少なく、賑やかな若者もおらず、静かで透明で綺麗な海だった。
干潮時には浜辺から長く岩場が続き、磯遊びを楽しめた。イソスジエビを網でたくさん捕まえて、海の家で素揚げしてもらって食べるのが好きだった。干潮時でも完全には潮溜まりにはならない細長い亀裂にはウツボがいて、初めて見た時は驚いて足を滑らせて冷や汗をかいた。ウツボの方はといえば素知らぬ顔で穴に収まってこちらを見上げていた。前鼻孔がぴろぴろ揺れていた。
そういえば一度だけ、若者二人組が弟の持っていた網を一瞬貸してほしいと声をかけてきたことがある。カツオノエボシがいるから捕りたいと言っていた。当時の私はカツオノエボシのことを知らなくて、両親にカツオノエボシって何?と聞いた。父親が青いクラゲだよとだけ答えて、母親と2人で心配そうに若者を見守っていた。青いクラゲとだけ聞いた私は、大層綺麗なクラゲだから捕まえたいのだろうとしか思っていなかったので、両親が心配そうにしている理由はわからなかった。程なくして若者が戻ってきて、網を返してくれた。人の少ない浜辺の端っこに捨ててきたと言っていた。
帰りに見たそのカツオノエボシが、私が初めて生で見たカツオノエボシで、今の所最後に見たカツオノエボシだ。浮きの部分は潰れていて、何が何だかよくわからない形をしていたが、やたらと目を惹く青だなと思った。毒のあるものは美しいの典型だ。
シュノーケリングをする時は、大抵フロートの上に弟と2人並んで腹這いになり、それを父親が引っ張って泳いでくれた。最後の何年かはフロートを借りないで父親と2人でシュノーケリングをした。弟はパラソルの下でチョコレートを食べる方が好きで、母親は波に酔ってしまうから専ら荷物番をしていた。(という言い分で荷物番を引き受けているのかと思っていたが、本当に波に酔っていた。)
海藻の繁茂する辺りは何かが出てきそうで恐ろしくて、思わず身を固くした。コバルトブルーの小さい魚が綺麗でお気に入りだった。波の音と、自分の息がシュノーケルを行き来する音と、魚が貝を食べている音が聞こえるだけだった。気づくと背中が熱くて、その度に頭だけ出して全身を海に浸した。
昼食は海の家に戻ってラーメンを食べることが多かった。何回か、母親がどこからか買ってきた夏祭りの屋台で売っているような焼きそばを食べた気もする。
私は、父と母に見守られて、誰よりも海を満喫していたと思う。あの頃、私はやりたいことは全てをやれていた気がする。物怖じせずに。
昼食後数時間遊んで、夕方の手前で宿へと道を戻る。まだまだ暑くて、簡単にシャワーで流しただけの身体はベタついていて不快だった。マリンシューズには、行きにはついていなかった砂が取りきれずに残っていて、それも不快だった。疲労と不快感で不機嫌になる私に母親が怒り、空気は最悪だった。申し訳ない。
部屋に戻って疲れて眠ってしまうことも多かった。取り除けなかった砂たちがそこら中に散らばっていた。お風呂は家族毎に貸切で、露天風呂もあった。1日海で遊んだ髪は絡まってキシキシしていた。
夕飯も朝食も、部屋ではなく食堂で食べる。食堂に入るとテーブルの上に部屋の名前が書かれたプレートが置いてあって、そこに座るようになっていた。気がする。
食事はいつも何を食べても本当に美味しくて、当時好き嫌いの多い子供だったのにも関わらず完食することも少なくなかった。海の近くなので魚が多く、特に憶えているのはアワビだ。七輪の上に乗せられたアワビが必死に動いているのを見て苦しそうだと確かに思ったのに、バターと醤油の匂いに抗うことなどできずあっという間に腹の中に収めてしまった。母親が、滅多に食べられるもんじゃないんだからもっとゆっくり食べなさい、と笑っていた。
用意された量が多いのにあまりの美味しさに無理をして、一晩腹痛に苦しむ羽目になったこともあった。最後にダメ押しで食べたガトーショコラがトドメを刺した。
なんだかむやみやたらと長くなってしまった。最後にオーナーの話をしようと思う。今どこにいるのかも、何をしているのかもわからない、顔ももう朧げになってしまったオーナーの話。声はとっくに思い出せない。
初めてオーナーに会った時、魔女みたいだなと思ったことを覚えている。
顎までの長さで切り揃えられた髪の毛は染めた茶色というよりかは日に当たって抜けたような色をしていて、毛先にかけて外に広がっていき、控えめな台形のシルエットをしていた。黒いエプロンをしていたような気がする、とにかくなぜか黒のイメージが強くて、小柄で華奢な見た目とは裏腹に、食堂の窓から入ってきたスズメバチを素手で潰すような、そんなオーナーだった。
実はその宿はもう既にオーナーが変わっていて、オーナーが変わって1.2回は訪れたものの、私と弟の年齢が上がったこともあり足が遠のいてしまって、それきりだ。新しいオーナーももちろん良い人たちで、変わったところも変わらなかったところも含めて良かったことは誤解のないよう添えておく。
オーナーが変わったことを知らなかったので、最初はとても驚いた。両親は、毎年来るハガキが来なかったからもしかしたらと思っていたようだった。新しいオーナーが、前のオーナーは帰って行ったと言っていた。それが息子だか娘だかのところなのか、他のところなのか、言っていた気もするし言っていなかったような気もする。ただあの時点では「そういうこと」ではないようだった。
そしてあのオーナーのことを何も知らなかったことに気づく。名前も、どんな家族構成なのかも、どこに住んでいてどこで生まれたのかも、何も。それは、当時の私の年齢を考えれば当たり前のことかもしれないけれど。
ただの私のわがままだけど、キリンのオブジェの横で迎え入れてくれるのは、永遠にあなたがよかった。
入り口に置いた小さなブラックボードに、私をイメージしたと言って麦わら帽子の女の子を描いてくれてありがとうございました。行くたびに色違いのドナルドダックのヘアゴムを、弟には小さいぬいぐるみをありがとうございました。美味しいご飯と元気をありがとうございました。楽しい旅の思い出をありがとうございました。
おかげさまで、10年以上経った今でも、大切な思い出として、振り返ればキラキラと輝いています。どうか、どこかで元気に暮らしていてください。