音楽とわたし
今話題の映画を鑑賞した。内容は割愛するが、劇中歌のためだけに観に行ったと言っても過言ではない私としては、大変満足している。
そんな劇中歌をイヤホンから流し、サビに差し掛かったあたり。ストリングスが入ってきたその時、私は子供の頃から10年以上続けていたエレクトーンを思い出してしまった。
こんな風に、思いも寄らない角度から、何年も眠っていた記憶が急に目を覚ますことがある。その度に私は夏の夕暮れの最中にいるような、いつの間にかこんなに遠くまで来てしまったというような、途方に暮れた気持ちになる。
私にとってエレクトーンとは、私を私たらしめる要素の一つである。エレクトーンが生活になかったらこんなに音楽を愛していなかったし、何人かで音楽を作り上げる楽しさも知らなかったし、実力以上のことに立ち向かう力も持てなかったし、落ち込んだ時にステージからの景色を思い出して背中を押されることもなかった。音楽を聴いた時に拍子を取ることも、楽器を聞き分けることも、転調に気づくことも、タメを気持ちよく思うこともきっとずっと少なくて、それら全てを無意識にすることもきっとなかった。
音楽を聴かない日がない毎日を送っている中で、もしそれらの要素がなかったら。うまく言えないけれど、きっと今ほど音楽を聴いた時に感じるものは少ない。そして、その分の穴を他のなにかで埋めていると思う。
幼少期であれば小さなズレで片付けられてしまう差は、10年20年経つと大きな差になる。原点から引いた線は、途中に通る点が1mmでもずれていたら、長くなればなるほど到達地点が離れてしまう。私にとって幾つかある点の一つに、エレクトーンは鎮座している。
エレクトーンを始めたばかりの頃も、やめる間近も、練習はそんなに好きではなかったと思う。特に最後の方はアンサンブルで発表会に出ることは難しくて(同年代かつアンサンブルで出ようとする人は少なかった)、かといってソロは食指が動かなかった。ただ自分で決めた課題曲を弾くための練習に嫌気がさしたのに加え、バイトや勉強が忙しくて尚のこと練習からは遠ざかっていた。
小さい頃はむしろエレクトーンが嫌いで、練習で弾けなくて泣き喚いて、次の発表会で辞める!と毎度宣言していた。なのにいざステージで演奏すると楽しくて、自分より年上のクラスの演奏を聴くとあんな風に弾けるようになりたいと思ってしまって、結局もう一年続ける気になってしまう。2.3年はそれの繰り返しだった。今思えばあれだけ騒いだのに、そしてそれが毎年だったのに、続けさせてくれた両親はすごいなと思う。
数年経って、私は辞めると言わなくなった。そのかわり1人、また1人と同じクラスの子達が辞めていった。人数は減っても学年が上がるにつれて曲の難易度は高くなった。私は細かいパートを任せられることが多くて、それが内心嬉しかった。
ステージ上で、よく動く私の指に向けられる視線を感じて得意気に思っていた。
数年前憧れていた年上のクラスの人たちのように、私も誰かのきっかけになれたらと思い始めたのは、確かそのあたりだったと思う。
私の心境の変化には関係なく、クラスの人数は減り続け、最後には私ともう1人になった。他のクラスと合同で2.3回ステージに立った後、遂に私だけになってしまった。そのあたりで、このまま続けた先に一体何があるのだろうと思うようになった。エレクトーンの先生になるという選択肢は、自分の中には少しもなかった。
その頃の私はやりたいことをやりながらも、それが何になるのかという考えを持つことが多くなった。母親から、別に何にならなくても続けたいのなら続けたら良いと言われても、続ける意味を考えずにはいられなくなっていった。その考えは進路にも派生し、一番やりたかったことで生活をしていけるかを考え、不安になり挑戦すらせずに諦めた。(その後バイトを始めて世の中には色々な人が色々な方法で生きているのを知って、夢を追ってもなんとかなったのではないかと後悔した。ただ、紆余曲折を経て、私は今の自分の仕事も好きに思えている。)
丁度その頃ギターを始めたこともあり、徐々にエレクトーンから遠ざかっていった。
最後に一度だけソロでステージに立った後、忙しさを理由に15年以上続けたエレクトーンを辞めた。存外あっさりとエレクトーンを生活から追い出した。
エレクトーンを辞めてからも、ギターは続けた。大して上手くはないのに、ただ数年余計に弾いていて慣れているというだけで、ちょっと上手い人の位置付けにいた。褒められる度に、そんなことはないと否定して回りたかった。それでもギターも、他の楽器と合わせるのも好きだった。
区切りの年、慕ってくれていた人から手紙をもらった。
「紅沢さんのギターを聴いて、ギターを始めました」
その時私は、エレクトーンのステージを思い出した。私の演奏が、誰かのきっかけになったという事実が、ただ嬉しかった。
そしてその記憶が、落ち込んだ時、足を止めてしまった時、今でもそっと寄り添ってくれている。