雑記 猫とか本とか、人生のモードとか
本当に雑記、日記 > 雑記 > メモ のようなイメージ。
■今更だけど英語の勉強を始めた
年末から英語の勉強をしている、いつか留学したいなあという思いをぼんやりと持っているものの、自分の年齢やら家族やら、猫と離れられないという現実やら、社会情勢やらといつ実現できるかわからないので、とにかく「今だ!」という状態になった時に動けるようぽつぽつと勉強することにした。
一人では絶対できないだろうと、自分のダメさを嫌というほど知っている私はコーチングサービスに手を出してみた。元来もっているケチくさい根性のおかげで、金をかけているんだという現状を元になんとか日々の課題をこなしている。
が、もはや義務教育はおろか何かを学ぶ環境から遠ざかって3億光年、勉強というものがさっぱりだし、中年の脳みそとは恐ろしい。覚えられない!忘れてしまう!ではなく、まずは情報が入ってこない、集中力も続かない。
週一で受けるオンライン英会話もズタボロで、四十路近くになって毎晩「勉強ができない」と泣きべそをかいている。
何かをしようと奮起し、何もしていなかった頃の自分より何かをしているのに、何もしていない自分のころより劣等感を感じるとは!そのループに落ちてわたわたとしている。
「TO不定詞ってなんでしたっけ?」という自身の現状を目の当たりにし、泣きながらできない自分を呪い、日々勉強らしいものに手こずっている。
■愛猫の近況
愛猫がトリコモナス原虫を保持しているという診断を受けて約3か月、結局投薬だ何だは行わず、以前と変わらない生活を送っている。
今のところ安定しているけれど、たまに血便というか血液が混じった粘液がトイレの近くに落ちていて「おろろ〜」と心細い感情になってしまう。一方、愛猫自身はかわらず猫々しく──つまり人間の心配なんざ素知らぬ顔で過ごしてる。こういう状態がこれからも続いていくんだろうなという塩梅。
人間でも持病とうまく付き合っている人は多くいるし、そういうものだよなあと自分をなだめている。というわけで愛猫は変わらずです、一応は元気。
そんな愛猫の知覚について。
猫って本当に不思議な生物だなと感じる。すべての猫が愛猫と同じなのかはわからないけれど、ものを認識するアプローチがヒトとまるで違うように思う。
人間の知覚は視覚情報が8割と言われているが、猫の知覚はどうなっているのだろう?
例えば、猫用のクッションベッドを新調したとして、「ほら新しいベッドだよ〜」と言い目の前に出しても数日はそれに見向きもしない。
数日または一週間、あるいは数年レベルで放置したのち、やっとスンスンとくだんのベッドを気にするそぶりを見せ、またそれから一週間ほどたったのちに、やっと新しいベッドで寝出すといった謎のアプローチを彼らはとる。
おそらくヒトとは視覚情報の使い方違うのだと思う。
関心があるものだけが見えてる感じで、関心がないものは知覚されていても、脳に情報として伝達されないとそんな感じ。フォーカスが合う箇所が、ヒトよりぐっと狭いのかもしれない。
一方で猫あるあるというか、私たちには見えないものを凝視してじっと見つめていたりするので、人間とは少し違う次元も知覚できているのかもしれないなあとも思う。本当に不思議な生き物と同居しているよなぁと日々感じる。
また、我が家の愛猫は恐ろしく精工な時計が内蔵されている。年末年始もその寸分たがわぬ電波時計によって、毎朝6時にはたたき起こされていた。生活習慣が乱れることには無縁でありがたくもあるけれど、たまには寝坊したいという下僕の思いも汲んでほしい。
■最近、読んだ本「母親になって後悔している」
Xで見かけ、そのタイトルのインパクトに惹かれて購入した本だった。
予備知識なく私はくだんの本を買った。想定していた内容は「子を持ってこんなに大変だった!夫は使えないし!」などと育児に関する愚痴や鬱憤を主とした、育児あるあるなエッセイ集だと思っていたため開いた瞬間面食らってしまった。随分と学術的内容でなかなかするするとは読めず、入眠には適した本だった(もちろん内容もぐっと濃いものだった)。
著者はイスラエルの社会学者 オルナ・ドーナト彼女が23人の母となった女性にインタビューを繰り返し、母になったこと、母であることへの後悔を記録したもの。
記載しておきたいのはインタビューを受けた多くの女性が、きちんと子どもへの愛情をもっていることだ。
「子どものことは愛している、それでも母になったことは後悔している」と書かれていて、けして子への愛情が薄いゆえに、母になった選択を否定しているわけではないことだ。
本の中にも記述があるが、母というイメージとそこに求められるものの重さを改めて感じた。
優しく温かく献身的で、穏やかで声を荒げず、どんな時も子どもを愛し受け入れ完璧であることを、母となった女性たちは常に求められている。私も少なからずそれらを母に求めていた側の人間なので、自分の行いを省みては申し訳なくもなった。
女性は母になった瞬間、自己のアイデンティティよりも母であることを強要される。良い母であることが存在価値なのだと。一方、同じく人の親である男性には、社会性が求められている。社会に出て金品をもって家庭に還元すること。
内と外とその役割分担という面は理解できるが、母親は人格までもが徹底して求められる現状に比べ父親への人格追求はさほどなく、その歪さを理不尽にも感じる。
この本に綴られている後悔は、子を持ち母となったしことへの後悔だが、一般的には未だに子どもを持たないことへの後悔や、子どもを持たない選択をネガティブとするものが多いように感じる。またこの子どにまつわる後悔だが、女性のものとして語られるのが常だ。
男性へ向けて、父とならないことへの後悔を促すような風潮は令和の今でも目にすることがほとんどない。
「このまま子どもを持たないで良いのか?」という通告は、常に女性の元へと届けられる現状に、なんとも苦いものを感じてしまう。
今年の春ごろ私は四十となる、10年ほど前に結婚をしたものの子どもはない。
去年の今頃を思い返すと、子供を持つならば今年がラストチャンスだろうなというのが常に頭の中にあって(それでも高齢出産となるが)、どこかざわざわするような、無償に焦る感覚が半年ほど私の周りに張り付いていた。
結果、特に何か動くではなく、結果的に子供を持たない人生に流れていった。
私の場合は絶対的に子供が欲しかったわけでも、絶対的に子供が欲しくなかったわけでもない。ただ結婚して数年のうちには子どもを持つんだろうなと漠然と思っていたし、私の親も、また夫の両親もそれを望んでいたと思う。
結果として私に子どもはいない。子どもがいたら父との関係も、もっと円滑で打ち解けたものになっていたかもしれないと思いもするけれど、子からすると自分が何かの出しにされるなんてまっぴらだろうので、結果的に今の持たざる者でよかったと思っている。
数年前、まだコロナの気配もなかったころに同じチームで働く子持ちの女性がいた。子どもにまつわる話になると彼女に言われた言葉を思い出す。
「子どもがいる人生こそが本物の人生だよ」、と。
彼女は母となった自分に満足し、肯定的に捉えているタイプの女性だった。やや無神経な性格で「私って、なんでも思ったことをズバッと言っちゃうんだよねー」という自称サバサバ系の女性でもあり、この書きっぷりから感じらえると思うが、私は彼女のことが苦手であり、自分とは違う世界の人だなあと常に感じていた。よって、彼女の持論である「子がいてこそ!」という人生感も、思い出すとなんともなあという冷めた感情が浮かんでしまう。
彼女は育休後、一ヶ月ほど会社に復帰したのちあっさりと会社を辞めていった、その後私が彼女と会うことはない。
彼女は今も彼女の呈する「本物の人生」を楽しんでいるだろうか?
彼女の尺度からすると、私が歩む日々は「偽物の人生」となるけれど、それでも私の手には余るほどやりがいもあり、また生きづらくもある。
「偽物の人生」程度のモードが身の丈が合う私には、「本物の人生」モードでは立ち回ることができなかっただろう。グランドラインに踏み入ることができなかった海賊団になるが、イーストブルーもなかなか冒険しがいのある海だと思う。
何かを愛したいという感情は、ありがたいことに愛猫が程よく受け流しながら付き合ってくれている。はた迷惑な激重感情も、猫たる利口さを持ってするりと交わしてくれている。本当に猫あればこそ。誰かを愛したいという私の欲求は、今のところ無事収めるべき場所を得ている。
偽物の人生でありながらも、私は猫を愛し、往々にして煙たがられながらも日常を紡いでいく。