「目の前」の人は「自分」とは。
陰陽って
2極のことが在って一つ。
あの陰陽のマークって
抱き在ったそれぞれが、決して離れない形なんだわ。
カタカムナの吉野信子さんのセミナーを6年ほど前に小さな会場で受けた時「ちょっと作ってみたのよ!」と陰陽の球体を見せてくれたのだ。
不可能に近い形を組み立てるために分解して色付けして、元の球体に戻して、串刺しにしてあった😁
現物を見ていたおかげか?
今回の「いいも悪いも一つ」って感覚があれを思い出して腑に落ちた。
「いい部分」だけで「わたし」を構成しようと思っても、宇宙のことわりで生きているわたしたちにとって、影を抹殺なんてできやしないから、どこまでも追いかけてくるのだ。
切ってもきれない、そもそも「一つ」なのだから
無かったことにもできないし
消し去ることなんてできない
消した、切り取った、切り離したと「実行」したつもりでいてもそれは「思い込み」であって、そこに「在り続けている」のだ。
見えないようにしても
見ようとしていないだけで
在り続けているのだ。
目の前の人は
わたしが「造り上げたキャラクタ」だとしたら?
とよくあることを考えながら見ていたら、、、
あ、もしかして、自分の自分が嫌だと思う部分、つまり「悪い」と影に追いやってる部分かもしれない。
ならば、そのまんま「それはわたしの一部」と受け入れ、許すことで「わたしに統合される」のではないか?と気づいたわけだ。
陰陽。
それで一つ。
マザーテレサが抱きしめた「悪魔」にまた一つ近づけた気がする。
そんなわたしに出会った時
「嗚呼、やっと出会えたね」と両手を広げてハグしよう。
できるかどうかなんて考えるより
そこに至った自分を褒め称えよう。