だから、我慢とかしてるから病気になるんだよ。
あ、病気だけではないわいな。
道はいくらでもある。
囚われる瞬間を目の前にしてまた、色々と気づきが手に入る。
昨日の場合は我慢が何かはわからないが、
「これだ」と飛びついたときそれは「囚われ」になるんだなーって。
自覚カウンセラーのパンダさんの記事にもあったよね。
うずまきはあくまでも俯瞰して、ファジーであるのだ🤣
柳のようにゆらゆらとしなり
かわし、流れるように中庸で笑笑ナンノコッチャ
囚われも悪いことではない。
いいか悪いかで判断し続けることも囚われの一種。
違う方向からみたら、いいも悪いも同じことだしね。
キラキラして囚われている人は幸せそうだから、それでいいんじゃない?🤣
わたしも色々体がつらたんだった時は蝶よ花よとあちこちに行脚していたもの。
あの頃を、今の「至ってしまったわたし」が振り返ると、
やはりいろんなことを「何かのせい」にして我慢していたなと。
我慢と頑張るは背中合わせで、セットもの。
踏ん張って留まって、呼吸さえしているかワカラナイほど緊張していた。
笑って、なんでも楽しそうにできる。
でも、後ろ向いたら眉間に皺寄せてああー疲れたって言ってたな。
あ、いい悪いとジャッジをしているのではなくて、ただそうだったなーと
振り返っているだけね。
その緊張状態が今わかるのは、今が解けているか、または自覚したからの違う道が見えたからかもしれない。
やはり、自覚だな。
緊張すら「誰かのせい」だった。
父からの虐待のせい、そこと向き合ってないから同じ現象を作って、現在「夫」に役割をさせている。
という、そこら変に溢れている情報からの刷り込みで作った物のせいでわたしは緊張していた、、、と思い込んでいた。ヤヤコシイ🤣
じゃ、なぜだ?
緊張遊び。暇潰し笑笑
そもそも、
緊張して生まれてくるわけでなし
体の全てがフレッシュで
超整った状態であったのにー
どんどん壊して大人になる。
それもこれも、どこかで「あれ?」と気づくための逆積み木だったのだ。
細胞たちに食べ物を与えることだけが「喜び」でない。
やりたくないことをやっているときは「虐待」しているのだよ。
「我慢」をしている時がそう。
「頑張って」いる時も、そう。
体内の「わたし」を構成している細胞たちが「うき❤️」となることが「喜び」なのだ。
なんでも喜び。
例えそれが「辛い」と捉える事柄でも。
つまり「虐待」していると無自覚なことも全て「喜び」
そこを自覚したとき細胞たちに変化がおとづれる。
ああ、やっと「愛」が流れ込んできたって。