そうでもしないと外側にこびりついた鉄よりも硬い鎧にヒビを入れることはできないのです。
激しく同意な記事をどうぞ。
コメント欄でのやりとりの中で気づくことありますよね。
今朝は「道徳の本」はもしかして傀儡を作るための道具だったんじゃないか?と気づいたのです。
なんかクソ真面目にその中ではみ出ないように生きてきたような気がするよ。
だからかー
気持ち悪かったのだよ。
3歩下がって影踏まず的な?
そう言う「いい人像」をするこまれてきた親が、それになれなかったと自分を蔑んでまた子を産む。
そしてそのまんまの思考で子育てをする。
「いい子になーれ」って。
あー恐ろし。
はい、あなたは「良きひと」で生きてきた。
それはよろし。
どうぞ、そのままでお過ごしくだされ。
しかし、違和感を覚え、気持ち悪いまま「いい人」しか選択できずに生きてきた人は「自分への嘘・誤魔化し・正当化してしまった欺いた自分」でガッチガチになってにっちもさっちもなのだ。
そうです。
自分で選択してきたんです。
まずは自覚です。
その中身をしっかりとバラバラにして一つひとつしっかりと分解して認識していく必要があります。
そうでないと、外側にこびりついた鉄よりも硬い鎧にヒビを入れることはできないのです。
あんたが悪い
あんたが選んだ
自分がいけないんだ
そんなこと言うの簡単よね。
誰にでも言えるわ。
どこにでも書いてあるわ。
上から下へ
狭いから広い方へと押し出されるがままに
気おつけ・体育座りが「よし」とそれ以外は「不要品」「規格外」「返品」「廃棄」とシールを貼られた「モノ」はベルトコンベアーで一方通行なんだよね。
どこかで異変を唱え、病気になって立ち止まったり、レールからはみ出たり、弾き飛ばされたりして初めて「え?これが当たり前じゃないんだ」と気づく。
まるで「ノミの話」だね。
だから、鬱ってそう言う意味では「サイン」なんだよ。
全身で「いやだー」って叫んでる。
それはおかしいって叫んでる。
寄り添ってなんか要らない。
人の道徳なんて誰にも当てはまらないんだ。
本当に優しいってそんなことじゃないんだ。
一緒に塗れて考えて進む事なんだよ。
わたしがnoteを書く理由は「自分との向き合い」の記録のため。
そして、違う視点から多角的に会社くを広げるため。
色んな意見あって、いい。
意見の交流ができない自分がもどかしい。
わたし自身が「寄り添ってない」
だからこの現象が起きるんだな。
わたしは自分の中に蔓延っている「与えられた正義で作られた価値観」を脱ぐ。
どうやら、わたしの正義ではなかったからだ。
わたし自身の「ニーズ」を自分の中から吐き出す。
これが出来るのはわたしだけ。
どんどん刺激が欲しい。
無理やりポジティブにして封印してしまった感情の蓋を全開にして始まるのだ。
そういえば、じゃがいもが芽を出さないとずいぶん昔に、今は疎遠になっている5個上の兄に話したら「過保護なんちゃうか?しばき回して育ててみ」と言われた。
なんのこっちゃやったけど、わたしもじゃがいもになろう。
しばき回さなでてけーへんわ。
よしよししたかって、
上辺の言葉で優しくしても
何にも解決しませんねん。
ただ、気持ち悪いだけ!!!!!
はい。
モヤモヤしながらnote閉じまーす。
ほな!
あなたの思い込みを教えて。