わたしの中の悪魔の出現😁

おはよう。
すっかりと空気が秋分。


「人が人を治す」

ま、あると思います。

でも、これは傲慢な考え。


「その人の生きる力が発動された」

が正解だと真剣に思っている。

つまり、きっかけにはなっても「わたしがあの人の病気を治した」なんてことはないのだ。


治癒に至ったきっかけが、さまざまある中で、本人が「そうだ」と信じたことで改善されたりはあるだろう。

その信じ込みがエビデンスとなり、更なる信じ込み「確信」となるのだろうね。
とても素敵な信じ込み。


実際、個体によって何が良くて何が悪いかなんて

誰にもわからない


これが真実だと思うね😎



どれだけ「そうだ」と思わせられるか?
これが何よりも「手段」とし必要、最重要なことなんだよね。


結果・エビデンスを作るのは「たぶらかせる口」なんじゃないのかな😎



過去にいっぱい病気をして、 何かあれば病院でお薬で「誰か教えて」状態のわたしだった。


整体を学び、治すのだ!と張り切って、、、。
でも、その状態って「自分で選んで作ってますよね」をさんざん見せられた。

考え方そのものだと突きあたったとしても何w
どうすればお助けすることができるのか?とまだ考えていた。


助ける?


それってなんだ?と思い始めたところか
矢印が「自分」にむき始めたのだろうな。


救われたいのか?


という感じに「自分が相手に思った」ことを反転させるようになったのだ。


ただこの「思考パターン」は「自分責め」になりがち😁
ま、だとしても「自責の念」も経過の一つだったのだろうね。


そんなこんなで
「わたし〇〇なんです」と病名を告げられて、話の途中で涙されたとしても
反応しなくなったのだ。

あ、今に始まったことじゃないかも、、
共感能力に乏しい?わたしだから、それってその奥にもっと欲しいもん隠れてませんか?って思っちゃてきたかもー




でね

心の中に「笑うわたし」が出現してしまったわけです😏


病気以外も然り。


ほとんどのことが思いこみ。
アレが必要で
これも必要で
何がないとアレもこれもできなくて、、、。



あーであることがこーで
あーすることしかなくて
こーしなくちゃいけなくて

で、その根底に「求めてる偶像」すら

誰かに刷り込まれた「虚像」で。



実は

なんにも必要なものなどなくて
あなた、わたしがいるだけでいいのだよ。


生きていることは「体があること」


キーを打つ指先に奇跡を感じ
自律された呼吸がリズム良くされている自然物だと気付けた自分に大きな安心と喜び。

これ以上でも以下でもない。


にやつくよりも「微笑む」方が見え方が良さげなので
微笑むうずまきを意識しようw

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