ノリコ✕距離感
汗ばむ陽気と成りて候。
意気揚々と歩くタンクトップ男子を見掛けました。
まだまだ外出時はサンダルしか履かない方、お友達ですね(*´ω`*)
はじめに
「ストレス」というものが解らなかった。何事にも共通するかも知れないけれど、経験し、見識者に評価頂かないと、「この感じがストレスか」とはぼくはならない。
苛立ったり、恐れたり、不安だったり。
こういった負の意識が全てストレスとなるならば、ストレス症候群が世に蔓延しているという事にならないだろうか。
傍観者
ノリコが鬱で参っていた頃、ぼくには何が何だかだった。
色んな意識が感情を揺さぶり、意欲を削ぐ。
喋ること、動くこと、生きること。
ものの見方や考えはそれぞれで、現代社会生活を全うするには、お互いが折り合わなくてならない。
折り合いがつかなくなった時、内に閉じ込めるか、軋轢を生むか。
理解者であること
何が何だかのぼくは手を差し伸べられない。
掛ける言葉だったり、距離感だったり。
あれから20年が経ち、少しは手を差し伸べられる。
ただ、ノリコに寄り添えさえすれば良いのだと思う。
世間では決して折り合わないことであっても、ぼくだけは寄り添ってあげなくてはいけないのだと思う。
それは、息子に対しても変わらない。
最後に
ストレス社会であると良く耳にする。
ストレスが良く解らないぼくには、無縁なことだと思っていた。
父親の世代は、戦後の世界を生き抜くことが生活だったと思う。
今は、如何に満足いく生き方をするかを懸命に考える。
生死を身近に感じる生き方と、生死がある程度担保されている世の中で生きるのでは、世の中は全く違ったものに見えるのだと思う。
ストレスと無縁などとは考えてはいけないのかもしれない。
ストレスと向き合い、折り合いをつけ、生き抜かなければならないのかも知れない。