見出し画像

売らないアートで生きるには(思案中)

ここ最近は「売らない」ことに興味がある。

アートを生業にする。
絵で食う。

などと言うと、
多くは「どう売るか」「いくらで売るか」というような話になる。

私はこの構造に疑問を持った。
というか、この構造“しか”無いように語られることに疑問を持った。

何においても、目的を達成するためのルートが 1つしかない という事は極めて少ない。

王道、邪道、成功率の差はあれど
大体はいくつものルートが有り それぞれ自らに適正があるルートでゴールを目指す。

では「アートを生業にする」には、
本当に「アートを売る」ことしかルートは無いのだろうか。

断っておくと、これは現在進行形で思案中、試行錯誤の最中なので私の理屈にはまだいくつも穴や 問題点があるかと思う。

ぜひそのような点が見つかったら、どんな言葉でも伝えて頂けたらありがたい。


私はまず、アートを「売らないこと」について、徹底的に考えた。

また、アートを売らずに生きる「生き方」について、最高の理想像は何かを考えた。

こういう時は理屈が合うか とか 成功するかとかは一旦 一切合切忘れ去って、
最高に都合が良い理想像を まずは作り出すことから始めることに決めている。

アートを売らないで生きる というための要素を箇条書きで書き連ねてみる。

・アートを売らないこと
・制作費に悩まず作り続けられること
・発表の場があること
・衣食住に困らないこと
・売らずに評価が得られること
・必要なものが必要な時に手に入ること
・制作活動に必要な経験や挑戦ができること

こんな感じだろうか。

まとめると、

「作品を売らずとも、評価が得られて 発表の場があり 制作のための経験や刺激を得る体験、また制作のための画材や素材、そして生活のための最低限の衣食住が保証されている状態」

と言える。

作品を売らずとも、これらのものを得られれば私たちはアートで生きることが出来るのだ。

これを実現するために、ヒントになるのは「推し活」では無いかと思う。

例えば、ファンを抱える有名人が ライブ配信やなんかをした時に、

あるいは舞台上でのパフォーマンスをした際に

投げ銭や、チップ、おひねり というようなものが集まる。

最近ではこのようなものはとても一般的になったし、「推し活」「推し事」のような言葉もよく聞くようになった。

ライブ配信に投げ銭をするということも、ずいぶん抵抗なく受け入れられてきたように思う。

さて、では「アートにおける推し活」どう実現するか。

それはアート、もしくはアーティスト自体に ファンをつける動き。が良いのではないかと思う。

そして展示の際に、閲覧者は現金をチップ用のお金に換金して 作品や作者に渡すのだ。

数十万、数百万の作品を買うことは叶わなくとも。
このアーティストが好き、この作品が好き、
その気持ちを表明するために 数百円を投げ入れる。

展示の空間は無料で全ての人間に開き、
お金に余裕のある人は、気に入った作品や作者に任意の金額を投げ銭する。

お金に余裕が無い時は、ただアートを楽しんで帰ればいい。

そのような共済的な仕組みが出来れば、鑑賞者も買うより小さな金額や心理的負担で 作品を見られるし「アートに参加」出来る。

鑑賞者がただ作品を見るだけでなく、「参加する」というのはとても大事な事だと思う。
鑑賞者はそれにより、アートに対して「当事者意識」を持つだろう。

またその仕組みなら作者も、作品が売れずとも多少の利益を得られる。

多くの人数で 1人のアーティストを食わせる。
超分散型パトロンとでも言おうか。

前述した、「アートを売らずに食っていく」ことの条件を満たせるのであれば もちろん投げ銭が必ずしも金銭である必要は無い。

米でも、飲み物でも、画材でも、旅行でも、住居でもいい。

米農家の方が、応援したいアーティストに米を投げ銭してもいいし

飲み物を1ケース投げ銭してもいい。

そのような事が、鑑賞者とアーティストの間で当たり前にスムーズにできるような環境や仕組みづくりが出来れば良いのではないだろうか。

これはアートの動きとして恐らく邪道であると思うし、もちろんこれだけで 全ての課題は解決しない。
これだけで食っていけるとも言えない。

しかし、このような方向性の働きかけを 更に包括的にしていくことで、

作品を売らずに「アートで生きる」ことに近づいていくのではと思う。

そんな事が出来れば 「絵で食う」ことのひとつの抜けみちが出来るのではないだろうか。

そんなことを、日々つらつらと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?