「先生を支えたい」と連呼している私は「先生が嫌い」だった
今,「先生を支えたい!!」と連呼している私は「先生が嫌いだった」。
「好き」から「嫌い」へ
結論。私が「先生嫌い」となったのは「先生は私のことを何もみていない、先生たちみんな私のことを信じてくれない」と沁みるほど実感した体験があったからです。
素敵な友人関係に恵まれ,学校が居場所となってきたころ。
「どの先生もいいところ、悪いところあるし、基本的に好きだな」と思っていました。
そんな時学校でたまに起こっていた「トイレットペーパーが燃える事件」
私はこの事件の犯人に仕立て上げられました(真犯人の生徒によって)。
生きてたらそんなことも,ありますよね〜!
私が犯人に仕立て上げられた時,目撃者(真犯人),証拠(マッチ)が揃っているということで,何日か連続で放課後2〜3時間の尋問を受けていました。
泣きながら「やってません」を繰り返し。終いに泣くことしかできない私に先生は「その涙は何の涙?」とまで聞いてきました。
“ああ,悲しい,悔しい,辛いの涙も,事件を起こした後悔の涙だと捉えられるんだ。”
“そっか、今まで先生と仲良く色んな話をしてきたつもりだったし、先生は私のこと信じてくれてるつもりだったけど、全部「つもり」だったんだ。”
その後色々あって真犯人はバレた訳ですが…
真犯人はどうでもいいんです。ただ、先生不信になり,「こんな,人を信じられないような人間が先生になっていいのか?」と思ったんです。
この思いを持ったのが、教育学へ踏み入れるきっかけであり根っこであります。
「先生嫌い」から「先生を支えたい」へ
「こんな、人を信じられないような人間が先生になっていいのか?」という思いは「教育をしっかり学問で学びたい」に変わります。
教員養成の過程に問題意識を持った訳です。
大学で「自分の経験だけで教育を語るなんてなんで浅はかだったんだろう」と思いました。
ただ、自分の興味関心,強い思いのまま色々なイベントに顔出したり,作ったり,コミュニティにも参加したり、勉強したり…と様々な人に出会いました。
そこで、支えたい!と思える素敵な人々に出会ったのですわ。本当に幸せなご縁です。人々というのは,現職の先生から教員志望の先輩,友達,同級生など様々です。
教育学部で,教育学にかじりついて,学んで,教育の現在地やこれからをみて、考えて。
これからは目の前の子どもたちを主人公に、その未来を支えていく人たちと協力しながら、謙虚に学び、関わり続けたいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。