「貨幣」の価値はどこにある?
大学生なった今でも、非常に脳裏に焼き付いている文章を覚えている。
確か高校二年か三年のころ、こんな文章を読んだ。
「絵画は紙幣に憧れる」椹木野衣著
「紙幣」というものについてグルグルと考えさせられたものだ。
そこでもう一度、この文章の書いてある教科書をえいさと引き出してみる。
もう一度読んでみることで、高校生の時に読んだ感覚とは異なる感を覚えた
不思議だ。
「近代的」な紙幣
まず考えてみましょう。
いわゆる紙幣は物質的な観点からすれば「ただの紙きれ」にすぎないのです。
100円硬貨も物質的に見れば「ただのありふれた金属」です。
それなのに、なぜ「価値」を持っているのでしょうか?
いや、正確には
なぜ「価値」を持っているように見えるのでしょうか・・・?
それは先ほど書いた通り、紙幣が近代的であるからです。つまり、紙幣が近代という中での産物であるからでしょう。
近代を象徴するものとして、「資本主義」というものがあります。
単なる物々交換ではなく、紙幣というものがモノの配分、交換を仲介する
当然、媒体となる「紙幣」は価値を持っていなければ、価値を持っているように見えなければこのシステムは崩壊してしますね。
ここで少し本文から引用です。
ゆえに、どんなに非実体的な信用に支えられているからといって、いや、そうであるからこそ、紙幣はいっそう実体的な価値を持つ―それ自体が物質として価値を持つ―かのように見えなければならないのです。近代的なシステムにもかかわらず、あたかも前近代的な貴金属や宝物のように、です。(2010年)、椹木野衣、「反アート入門」、幻冬舎
価値を持つ?紙幣。
では一体何が、この紙幣に価値があるように見せているのか。
簡単。
人物画。風景画。手の込んだ装飾。色どり。
これだけです。
つまり、複製を困難にしているのです。
これは希少価値を紙幣に保証するためです。もし紙幣が大量に複製されれば紙幣はその「希少価値」をいとも簡単に失ってしまいます。
資本主義というシステム内で、紙幣が価値を持っているように見えなければならない理由がこれです。
現実(虚構)
このように人間の世界は非常に興味深い表情を見せてくれます。
その表情はまるで、作り笑いそのもの。
笑っているように見えながら、笑ってはいないのです。
人間世界=作り笑い、です。
サピエンス全史上にこのような文章があります。
だが、虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像だけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代(天地創造の時代)」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通に神話を私たちは紡ぎだすことができる。(2016年)、虚構が協力を可能にした、ユヴァル・ノア・ハラリ、「サピエンス全史(上)―文明の構造と人類の幸福」、柴田裕之訳、河出書房新社、p40
この文章に限らず、サピエンス全史において
「虚構」は重要な言葉です。
この本からでなくとも、人間の世界には「虚構」が溢れています。
小説。漫画。戯曲。
学校。
労働。会社。
社会。
テレビ。youtube。
ごっこ遊び。
家族。
この他にも色々、というかこれは切り取ったもの。
だって、人間の世界(=虚構)=作り笑い、と先ほど書きましたよね。
とまぁこんな感じで、紙幣から少々脱線してしまいましたが
紙幣の価値はどうやら、人間の思い込みの中にしかないようです。
では。
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